
ドストエフスキー(50歳)1872年ペローフ作 トレチャコフ美術館(モスクワ)蔵
「大多数のものは、癲癇発作に襲われた人を見て、神秘的なあるものを含んだ、激しく耐え難い恐怖を抱くものである」
ドストエフスキー「白痴」米川正夫訳
「そう、わたしは「倒れ病」にかかっている。これは、12年前、人生のうちでももっとも最悪の時期に、不幸にも背負うことになった病だ。しかし、病気を恥じる必要などない。それに、倒れ病といえども活動を止めることはできないのだ」
1865年12月のドストエフスキー自筆ノート
内容
ドストエフスキーの生涯
誕生、幼年時代、少年時代
ドストエフスキーは、ご存じのように、19世紀ロシアの小説家です。
生まれたのは1821年11月。
この年、ナポレオンがセントヘレナ島で死に、ヨーロッパは政治的反動期を迎えていました。一方、同じ年にフローベール、ボードレールといった文学の新たな担い手も誕生しており、7年後にはトルストイも生まれています。
父親は医者でした。司祭の子として生まれた父親は、ナポレオン戦争に従軍したのち、施療院の医師となり、八等官の官位を獲得しました。ピョートル大帝が定めた官位では八等官以上が貴族に準ずることになっていますから、ドストエフスキー家も貴族階級ということになります。
母親は裕福な商人の娘でした。当時のロシアの女性にはめずらしく、十分な教育を受け、詩的な言葉で手紙を書く女性だったようです。
上には1歳ちがいの兄ミハイルがおり、ドストエフスキーにつづいて弟3人、妹3人が生まれています。
子沢山の10人家族ですから、子供時代、ドストエフスキー一家は貧乏だったという伝説が流布していたこともあったようです。しかし、ドストエフスキーは思春期に名門寄宿学校で教育をうけていますし、父の死後、その遺産によってかなりの年金をもらえるようにもなっています。貧乏だったとは思えません。
少年時代の「貧乏伝説」はドストエフスキーが成人してからの借金生活の類推から生まれたのかもしれません。
しかし、ドストエフスキーの幼年時代における「貧乏伝説」には、奇人だった父親も一役買っていた可能性があります。
貴族に列せられた父親は、別荘にでかけていった妻に「あわれな、よるべないわたしを忘れないでおくれ」と詠嘆調で手紙を書きはじめながら、そのあとで、召使いが身の回り品をくすねてしまわないか心配になり、一転、「書いておよこし……おまえのドレスや胸飾り、ナイトキャップなどで残していったものはないか、それから納戸においてあるようなものについても、ようく思い出していちいち書いておよこし。ワシリーサにごまかされないかと心配だから」と、くどくど書くような人物でした(コンスタンチン・モチューリスキー著 松下裕・松下恭子訳「評伝ドストエフスキー」)。「ああ、なんと残念なことだろう……手元不如意のためにおまえの名の日のために何にも贈ってやれないとは。わたしの心は悲嘆にくれている」などとも妻に書き送っていますが、貧乏という強迫観念に襲われていただけで、妻にプレゼントを何も買えないほど窮迫していたわけではありません。
その妻は、37歳の若さで死んでしまいます。ドストエフスキーが16歳のときのことです。妻の死後、父親は、まだ46歳だというのに、仕事を辞め、ドストエフスキーの弟や妹たちをつれて、自分の地所の村にひきこもります。どうやら、妻の死に相当ショックを受けていたようです。一人部屋にこもって亡き妻と大声で「会話」をかわし、その上、飲んだくれ、本来の性格にいよいよ磨きがかかります。そして、絶望的になっていた父親は47歳(1839年5月27日)とある農場で働いていた農奴たちに向かって何らかの理由で常軌を逸した怒鳴り声を上げ、一人の勇気ある農奴と言い合いになりました。あげくのはてに、飛びかかってきた農奴たちに押さえつけられ、殺害されたといわれています(アンドレイ・ドストエフスキー「父親の死」 1930 レニングラード)。弟のアンドレイによれば農奴たちは金をかき集めて警察を買収、司法解剖後には「外傷の痕跡なし、死因は心臓発作」という死体検案書が書かれたとのことです。この父親が殺害されたという噂は、土地をめぐって父親と争っていた近くの地主が悪意をもって言いふらしたものだともいわれているようですが(亀山郁夫(2021)日本てんかん学会特別講演)、ドストエフスキーの家族や親戚は農奴による他殺説を信じていたようです。当時、ペトログラードで寄宿舎生活をしていたドストエフスキー(18歳)やその兄にもその噂は届いていたはずだとアンドレイは後に語っています。
父親の病的なまでの吝嗇癖はドストエフスキーの妹に受け継がれます。妹は夫の死後、莫大な遺産を手にしたにもかかわらず、召使いを雇う出費を嫌い、一人暮らしを続けました。そして、その噂を聞きつけた強盗に殺害されます。
しかし、ドストエフスキーには父親の吝嗇癖が正反対に遺伝してしまったようです。成人してからドストエフスキーは金銭に関する無能ぶりを大いに発揮することになります。
この父親のもとへの来客は少なく、他の家族との交流はあまりなかったようです。そのうえ、14歳で寄宿学校にはいるまで、教育は家庭のみでおこなわれました。聖書物語などを教材とした母親による読み書き学習がまず始まり、その後、家庭教師に引き継がれました。ただし、ラテン語教育だけは父親によってなされたようです。こうした教育環境の中、当然、級友もいませんから、ドストエフスキーは兄弟以外の同年輩の子どもと遊ぶ機会があまりなかったようです。
しかも、その数少ない幼な友達も、突然、いなくなることがありました。
ドストエフスキーが9歳のときのことです。
父親が医者として勤務していた施療院の料理人(もしくは厩務員)の娘が酔っ払いの悪党にレイプされ、出血多量で死んだのです。ドストエフスキーは父親を呼びに走りましたが、手遅れでした。ドストエフスキーと同い年の仲良しで、ほっそりとした美しい女の子だったようです。のちにかれはこの痛ましい事件について「人の命を奪うのはとんでもない犯罪だが、美しい生活の中で育まれていた信仰を奪い取るのはさらに許しがたい罪だ」と憤っています。「現在の子どもたちも神聖な追憶をもつようになる……さもなくば生きた生活が中絶してしまうからである。少年時代の追憶から得た神聖な、貴重なものなしには、人間は生きていくことすらできない……追憶は、あるいは苦しい悲しいものでさえあるかもしれないけれど、しかし過ぎ去った苦痛は、後日魂の聖物になるものである。人間というものは概して、過去の苦痛を愛するように創られている」(作家の日記 1877年7月・8月 1-1)と書いているドストエフスキーですが、この陰惨な記憶だけは魂の聖物にはなりえなかったようです。事件の記憶は心の奥深くに沈みこみ、のちになって、かれの小説の中で幾度となく噴きでることになります。
この痛ましい記憶があったせいかもしれません、のちにシベリアの牢獄につながれた時、ドストエフスキーの夢枕に立った少年時代の魂の聖物は、子どもではなく、父親が所有する地所で出会った、無知ながら宗教心に富み、心優しかった農奴だったようです(作家の日記 1876年2月 百姓マレイ)。「狼がくる」と脅える幼いドストエフスキーに農奴のマレイが「なにをいうのだね、なにを?どこに狼がいるもんかね、そら耳だよ、ほんに!」と励ましてくれたエピソードをのちに描いています。百姓外套にしがみつくドストエフスキーの頬を撫でて「さあ、キリストさまがついてござらっしゃる。十字切るだよ」とマレイは優しく諭してくれました。
14歳の年、ドストエフスキーは名高い教授陣が名を連ねる名門寄宿学校に入学します。そして、母親が死んだ16歳の年、ペテルブルグの寄宿学校に移り、翌年、工兵学校の試験に合格、22歳の年まで工兵学校の寮で過ごしました。この工兵学校の同級生には、のちに将軍として対トルコ戦争を指揮してロシアに勝利をもたらした国民的英雄ラデツキーがいました。そのような工兵学校にとって、シラーをはじめとするロマン派西欧文学に耽溺し「人間は謎です。それを説きあかさねばなりません」と兄に書き送っていた文学少年ドストエフスキーは相当場違いな生徒だったでしょう。
作家デビュー
22歳で工兵学校を卒業し、少尉に任官、製図局で働くようになります。父親の残した領地からの収入と製図局の給料を足すと、年収は5000ルーブルにのぼり、充分豊かな生活ができるお金が保証されていました(江川卓氏の試算によると当時のロシアの1ルーブルは現在の日本の1000円前後に相当するようです。ですから、当時のドストエフスキーには500万円の年収があったことになります(江川卓 謎とき『白痴』)。ところが、ここで、ドストエフスキーは経済観念のなさを露呈、それは、この後、長年にわたって、彼を苦しめることになります。ばくちで金をすってしまう一方で、得体の知れない人間たちに鴨にされ、瞬く間に高利貸しから多額の借金をする羽目に陥ります。そして、何か月も文無しで過ごす生活を余儀なくされました。それでいながら、製図局勤務に辟易し、一年で退職してしまいます。文学に専念したい一心の行動でした。しかし、かといって、文学で身を立てられる見込みがあったわけではありません。ただ一つの望みは、ゴーゴリの小説にヒントを得た貧しい官僚と薄幸の少女との交流を描いた小説「貧しき人々」でした。推敲に推敲を重ねた小説は、24歳の年に完成します。ドストエフスキーは完成した原稿を、当時、同居していた工兵学校の学友グリゴローヴィッチに読んで聞かせました。その小説に感激したグリゴローヴィッチはその草稿をドストエフスキーから無理やり奪い取って、詩人で雑誌発行人でもあったネクラーソフのもとに持ち込みます。そして、この小説を読み聞かされて落涙し熱狂したネクラーソフが当時の指導的文芸評論家ベリンスキーに「貧しき人々」を紹介します。ベリンスキーは「新たな才能現わる」と興奮し、ロシアに初めて現れた社会派小説だとドストエフスキーの処女小説を褒めちぎりました。「芸術家としてのあなたに対して真実がひらかれ、高らかに告げられたのです……どうかその天賦の才を重んじ、つねにそれに忠実であってください。そうすればあなたは大作家になるでしょう」と熱狂的にドストエフスキーに語りかけ、ベリンスキーはこの小説を激賞しました。
このようにして、ドストエフスキーは作家として華々しいデビューを飾ります。しかし、指導的評論家に派手に持ち上げられ有頂天になったのもつかの間、ネクラーソフやツルゲーネフたちにその天狗ぶりを揶揄され、ベリンスキーの文学サークル内でドストエフスキーはしだいに孤立していきました。その上、勢い込んで書いた第2作「分身」をベリンスキーに冗長とけなされ、猜疑心を募らせます。結局、1年ほどでベリンスキー、ネクラーソフらと袂を分かち、何度も前借りを頼み込んでいたクラエフスキーが運営する「祖国雑誌」に「白夜」などの小説を発表することになります。そして、その一方で、若い外務官吏ペトラシェーフスキーが主宰するサークルにも出入りするようになりました。
ペトラシェーフスキーの家には毎週金曜日に社会主義者が集まっていました。社会主義といっても、このサークルの人々が信奉していたのはフランスのフーリエが提唱した空想的(ユートピア的)社会主義で『この上もなく明るい、天国のように道徳的な光を帯びたもの』(「作家の日記」16 現代的欺瞞の一つ 米川正夫訳)でした。この社会主義は「キリスト教と同一視されて、単に時代と文明に応じて訂正され、改良されたものにほかなら」ず、「この上もなく神聖な道徳的なものと思われたばかりか、何よりも一般人類的なもの、例外なく全人類のために与えられた未来の掟」と考えられていました。ロマンチックな人道主義的小説「貧しき人々」を書いたドストエフスキーが、そのような社会主義に心を傾けていったのは自然なことでした。
しかし、専制政治によって硬直化した当時のロシアにおいて社会主義の理想を実現するのはどう見ても不可能でした。その閉塞状況を打ち破ろうとすると、最終的には暴力革命しかないということになります。しかし、ペトラシェーフスキーは平和的な宣伝活動によって大衆に影響を及ぼすことでこと足れりと考えており、暴力による変革など夢想だにしていませんでした。ドストエフスキーはしだいにそうした生ぬるい態度に不満を感じるようになったようです。ペトラシェーフスキー・サークルの急進派であるドゥーロフたちのグループに引き寄せられていきました。
ドゥーロフ・グループの中心人物はのちにドストエフスキーの小説「悪霊」の主人公スタヴローギンのモデルになったとされるスペシネフでした。裕福な家庭に育ったスペシネフは70歳の伯爵老夫人でさえ彼に恋したというほどの美青年で、フランスで過ごした6年間に自由主義者に変身していました。さらに、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に影響を受け、原始キリスト教に範をとった秘密結社結成を夢見ていました。ドゥーロフたちの目標は民衆の反乱を準備することでした。そして、その手始めとして秘密印刷所建設を開始します。これは、秘密警察を使ってまで体制護持に狂奔していた当時の専制ロシアにあっては、死刑を免れない、危険な企みでした。このため、ドゥーロフ・グループの入会規約には秘密保持のために「裏切りには死を」という条項さえ入れられていました。
ペトラシェーフスキーの集会には当局のスパイとしてアントネルリという男が潜入していました。ある時、この政府の密偵はドストエフスキーが朗読したベリンスキーの手紙にペトラシェーフスキーのサークルの面々が熱狂する場面を目撃します。ドストエフスキーが「ロシア国民には宗教はない」と読み進んだところで、割れんばかりの拍手が起きたのです。このときドストエフスキーが朗読した手紙というのは宗教に回帰しようとするゴーゴリをベリンスキーが非難したもので、当局から見れば「ロシアとロシア正教に対する不適な表現に充ちて」いました。「ロシアは恐るべき印象を醸し出している。この国では人が人を売り買いしている。人権にも、栄誉にも、私的財産にも、何の保障もない。警察による秩序は失われ、泥棒や強盗のさまざまな巨大ネットワークが存在している。ロシアという国家の緊急の課題は、農奴制を廃止し、体罰を厳禁し、現行法律をきちんと執行することだ――ロシアは無気力の中でうたた寝している!」といった文章が含まれていたのです。ドストエフスキーがこのベリンスキーの手紙を読んだ一週間後、1849年4月23日未明、ペトラシェーフスキーのサロンに出入りしていたドストエフスキーたち34名が逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞に収容されます。最終的に23名が起訴され、ドストエフスキーもその中に入っていました。ドストエフスキーの罪状は「悪逆なる企画に参加し、ロシア正教と政府に対して不適なる表現に充ちたる、文学者ベリンスキーの書簡を普及し、多くの同士とともに地下発行所を設立、手刷器械の方法によりて反政府的文書の頒布を企てた」ことでした。
裁判所が下した評決は「銃殺隊による死刑」でした。
処刑劇
1849年12月22日、ドストエフスキーたちはペトロパヴロフスク要塞から処刑場に連れ出されます。
「今日、12月22日、ぼくらはセミョーノフスキイ連隊の練兵場へ引かれていきました。そこで僕ら一同は死刑の宣告を読み上げられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、ぼくらは死装束(白いシャツ)を着せられました。それから、3人のものが刑の執行のため、柱のそばに立たされました。3人ずつ呼びだされるのですから、したがってぼくは2番目の番にあたっており、余命一分以上もなかったわけです。兄さん、ぼくはあなたをはじめ、あなたの家族全部を思い起こしました。が、最後の瞬間はあなただけ、ただあなた1人だけがぼくの心に残りました。その時はじめて、なつかしい兄さん、ぼくがどんなにあなたを愛しているかを思い知りました!それからなお、そばにいたプレシュチェーエフとドゥーロフを抱きしめて、告別する暇がありました。
とどのつまり、退却命令の太鼓が鳴ったと思うと、柱に縛り付けられた連中が連れ戻されて、皇帝陛下がわれわれに生命を与えてくださる旨が読み上げられました。それから本当の宣告が下ったわけです。(1849年12月12日、兄ミハイルへの手紙)」
「本当の宣告」は、死刑ではなく、シベリアへの流刑でした。死刑から流刑に減刑されたのはドゥーロフ・グループの計画の全貌が漏洩しなかったおかげかもしれません。しかし、最初に柱に縛り付けられ兵士に銃を向けられた三人のうち一人は「退却命令の太鼓」の合図が間に合わず、発狂していました。

1849年12月22日、とある画家が描いたペトラシェーフスキー・サークルメンバーたちの集団処刑情景 (The Dostoyevsky Archives 1997) 「発射、用意!」銃殺隊への命令が響き渡った。しかし、すぐさま、処刑命令を撤回すべくスマロコフ将軍が「退却」太鼓を打ち鳴らすよう鼓手に命じた。囚人から目隠しがはずされ、新たな判決が申し渡された。死刑執行は中止、残りの囚人も減刑。「皇帝、万歳!」 群衆が口々に叫んだ。多くの人が目に涙を浮かべていた。 (処刑執行を担当した帝国防衛歩兵連隊所属ヴーイチ大佐の談話 The Dostoyevsky Archives 1997 p104-6) |
20年後、ドストエフスキーは小説「白痴」でこの場面を再現しています。
「この男はあるとき他の数名のものと一緒に処刑台にのぼらされました、国事犯のかどで銃殺刑の宣告を読み上げられたのです。ところが、それから20分ばかりたって特赦の勅令が読み上げられ、罪一等を減じられました。けれど、この二つの宣告のあいだの20分、少なくとも15分というもの、その人は自分が幾分かののちにはぽかりと死んでしまうものと信じて疑わなかったのです……その人は……この数分かの出来事はけっしてけっして忘れはしない、といっていました。群衆や兵隊に取りまかれた処刑台から、二十歩ばかり離れたところに、柱が三本立ててあったそうです……まず三人のものを引っ張っていって柱へしばりつけ、死刑服を着せ、それから銃の見えないように、白い頭巾を目の上までかぶせました。次ぎにおのおのの柱の前に数人ずつの兵士が整列しました。ぼくの知人は八番目に立っていましたから、したがって三度目に柱の方へ呼び出されることになっていたわけです。一人の僧が十字架を手にしてひとりひとり回って歩きました……刑場からほど遠からぬところに教会堂があって、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。かれはおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反して輝く日光をながめていて、その光線から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ自分の新しい自然である、いま幾分かたったら、何らかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気持ちがしたそうです……今にも到来すべき新しい未知の世界と、それにたいする嫌悪の念は、じつに恐ろしいものでしたけれど、当人にいわせると、このときもっと苦しかったのは、絶え間なく浮かんでくる一つの想念だったそうです、―――『もし死ななかったらどうだろう?もし命を取り止めたらどうだろう?それは無限だ!しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ!そうしたら、おれは一つ一つの瞬間を百年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする。そして、おのおのの瞬間をいちいち算盤で勘定して、どんなものだって空費しやしない』 この想念がしまいには激しい憤怒の情に変わって、もう片時も早く撃ち殺してもらいたい気持ちになったそうです」
死刑執行直前の赦免、という人を発狂に追いやるような劇のシナリオを書いたのは当時のロシア皇帝、ニコライ一世でした。皇帝自ら、死刑執行の規模、囚徒たちと司祭の服、太鼓の打ち方、監獄から刑場への通路、剣の折り方、足かせのはめかたまで細々と指示し、しかも、3度も変更しました。死刑執行が取りやめになった時、監察省はドストエフスキーの公民権剥奪と最大8年間の収監をとりあえず決めていましたが、これも、皇帝によって修正されました。「4年、ついで、1兵卒として軍役」とニコライ一世は手書きで減刑案をメモ書きしました。
専制君主の冷酷な気まぐれは、しかし、結果的に、ベリンスキーが予言した大作家ドストエフスキーを誕生させることになります。兄への手紙の中でドストエフスキーは次のように書いています。
「……ぼくはきょう45分ものあいだ死と直面し……最後の一刹那まで押しつめられたのです。ところが、今もういちど生きているのですからね!……過去をふり返って見て、どれだけ時が浪費され、迷いと、過失と、安逸と、無能な生活ぶりの中に過ごされたか、自分がいかに時を貴ぶことを知らなかったか、幾たび自分の心情と精神に悖ることをしたか、そのことを考えると、われながら心臓に血のにじむ思いです。生活は天の賜物です、生活は幸福です、一つ一つの瞬間は永遠の幸福となりうるのです。Si jemesse savait ! (もし青春が知識を持っていたら)いま生活を一変するにあたって、ぼくは新しい形に生まれ変わりますよ、兄上!誓っていいますが、ぼくは希望を失いません、自分の精神と心情を純なままに保ちます。ぼくはいい方に更正します」
死の一歩手前まで押しやられた28歳のときの体験と、その後の4年間の極限状態ともいうべきシベリアの監獄体験が血肉化し、巨大傑作小説群が生み出されることになります。
ロシアの政治と宗教
ただ、この前後のドストエフスキーの行動、心情を理解するためには19世紀のロシアについてある程度承知しておく必要があるかもしれません。
ロシアはヨーロッパの辺境に位置します。その地理的条件が政治的にも宗教的にも文化的にもロシアをヨーロッパの僻村にしてきました。
ヨーロッパの僻村といっても、ユーラシア大陸全体からみればロシアは辺境国家ではありません。しかし、ウラル山脈の向こうにはシベリアという不毛の極寒大地が広がり、ロシア人が毛皮を求めて分け入るまで、文明の香りはなきに等しい状態でした。シベリアの南にはアジア文明圏がひろがっていますが、隣接する草原地帯には遊牧民が駆け回っていて、文明の香どころか、逆に、この遊牧民たちがしばしばロシアを破壊しにやってきました。13世紀、農業革命によって中世ヨーロッパが近代ヨーロッパへと抜け出すきっかけをつかみはじめた頃、ロシアはチンギス・ハンが創設したモンゴル軍団に蹂躙されます。都市を破壊され、約250年間「タタールの軛」と呼ばれたモンゴル(キプチャク・ハーン国)の間接支配下におかれます。この間、ルネッサンスも宗教改革もロシアにとって無縁のものでした。
「自分をヨーロッパ人と考える今までの見方を一変して、われわれは、ヨーロッパ人であると同じ程度に、否、むしろそれ以上に、アジア人であるということを認め、アジアにおけるわれわれの使命は、ヨーロッパにおけるそれよりもさらに重大であると認めること――当分の間、もちろん、当分の間である」(ドストエフスキー ノート 「アジア」 米山正夫訳) |
もともと、ロシアには焼き畑農業や牧畜を細々と営むスラブ民族が点々と群れをなしていただけでした。そこへ、9世紀にスカンジナビア半島からノルマン人がやってきて、従来から居住していたスラブ民族の支配者となります。このノルマン人というのは、武装した船で川を遡ってきたというのですから、おそらくヴァイキングの類でしょう。ちなみに、ロシアという言葉はノルマン人を意味するルースというギリシャ語から派生したものです。
当然ながら、このヴァイキングあがりの支配者と従来からの居住民との間に共通の文化的基盤はありませんでした。土着スラブ人とあらたな支配者を結びつけるものは何もなかったのです。国家らしきものが形成された時点においては、支配者の軍事力と住民からの収奪がかろうじて国家を形成させていたにすぎません。「剣にまさる法はなかった」のです。
誕生時のこうした国家構造がロシアという国を運命づけます。強権体質の支配階級と、内心はともかく、無言でそれに従う無数の農民。この2層構造は多様性をもたらす封建制度を生み出さず、近代社会誕生に必須な階層間の流動性、中間階級の派生も阻害しました。ロシアを近代化に不向きな国家へと硬直化させたのです。
圧倒的多数の農民にたいし支配層は力と宗教的権威づけで対応しました。そして、モンゴル支配がロシアを強権政治体制へとさらに押しやりました。モンゴルからの独立という旗印の下、絶対的権力が許容されたからです。それに、モンゴルの間接支配機構もロシアを専制政治体制へと傾斜させる要因になったことでしょう。
9世紀頃ロシアにいくつかの小国家が形成されはじめた頃は、ロシアの森林地帯から草原地帯(ステップ)に抜け出る場所に位置するドニエプル川沿いの交通の要所、ウクライナのキエフが栄えていました。しかし、その後、内紛、モンゴルの制圧でキエフは衰え、そうした中、モンゴルの権威をうまく利用したモスクワ公国が優勢となっていきました。そして、力を蓄えたモスクワ公国は15世紀には徐々にモンゴルの支配を脱し、ついにはキプチャク・ハーン国を滅亡に追いやります。
しかし、モスクワ公国が主導権を握った当時のロシアは、その後のロシアからは想像もつかないほどの「小国」でした。ポーランドやスウェーデンといった当時の「大国」にその存在を左右されかねないほどの状態だったのです。そのような弱小国家が巨大国家への道を歩み始めたのは、モンゴルへの貢納を拒否して最終的にロシアを「タタールのくびき」から開放したイワン三世の時代といわれています。そして、その後、ロシア帝国は20世紀初頭の滅亡時まで絶え間なく周辺地域を武力で制圧し、膨張していきます。このこともまた、ロシアで専制政治が継続する要因になりました。新たに獲得した領地の居住民を支配するにあたって、強圧的専制政治は「便利」で「効率的」な制度だったからです。当然、ロシア専制政治のもとでは、国家創成時同様、支配者と新たな被支配者の間に国民としての共通基盤は存在しえませんでした。
こうして、西欧諸国では中産階級が力を得て、絶対王政から立憲君主制、民主制へと移行していった時代に、ヨーロッパの僻村、ロシアでは、専制君主、皇帝(ツァーリ)1人に権力が集中していきました。国家の発展がツァーリの領土と権力の拡大を意味するという奇妙でいびつな国家体制が20世紀初頭まで続いたのです。
しかし、この専制君主の立場は、ときとして、きわめて危ういものになりました。貴族階級に操られたり、暗殺されたりする危険性があったのです。集中する絶対権力と疑心暗鬼、これがロシア専制君主の属性となります。そのためでしょう、この専制国家においては、傑出した能力のツァーリでも、どこかしら奇怪な面をさらけだすことがありました。
貴族を押さえ、ロシアの統一を確固たるものとし、ヨーロッパへの窓口を開いたと謳われるイワン雷帝は、ペルシャから送られてきた象がツァーリたる自分の前で跪かなかったことに激怒、即座に象を殺させました。西ヨーロッパ文明を取り入れ、神政的専制国家ロシアを近代化させようと努めた多芸の持ち主ピョートル大帝は、ブールハーフェの外科教室において解剖を見学したさい、屍体が切り刻まれる光景に胸をむかつかせている側近貴族たちに、屍体の腱をかみ切ってくるように命じています(ロバート・ウォーレス 「ロシア」)。かれの機嫌を損ねて、釘抜きを突っ込まれ、鼻を引き裂かれた人物もいます。超一流の文筆家で、「啓蒙主義者」を自称し、ヴォルテールやグリムと文通する一方で、ウクライナ、ポーランドに領土を拡大し、ロシアをヨーロッパの巨大帝国に押し上げたエカチェリーナ女帝は、夫ピョートル三世暗殺の黒幕ではないかとの噂が絶えませんでした。夫の死後、エカチェリーナは独身を通しましたが、その間、ポチョムキンをはじめとして12人の情夫をとっかえひっかえし、それは60歳を過ぎても止みませんでした。11番目の情夫の妻は、ちょっとした失言で女帝の不興を買い、夫の前で裸にされ、むち打たれています。
一方、ロシア近代化の巨大な壁となって立ちはだかった農奴制も「有能な」専制君主のもとで促進されました。農民の自由身分を認めず土地に縛りつける奴隷的強制労働は古代から中世にかけて、さまざまな国に存在していました。しかし、近代にはいると、ほとんどの国でなくなっていきます。貨幣経済の進展にともなって自由民による農業の方が農業生産性向上に有利になったからです。ところが、農業労働力が圧倒的に足らなかったロシアでは、土地に農民を縛り付けておくことが農業生産にとって必須条件だったため、奴隷的農民、農奴がなくならず、逆に、17世紀に入ってその奴隷的身分が法律によって規定されるようにさえなります。他のヨーロッパ諸国では自由農民による農業改革が推し進められていった中で、ロシアにおいてのみ、古代、中世の非効率的農業の残渣ともいうべき農奴制が定着していったのです。
農奴制が完全にロシアに根を下ろすきっかけをつくったのは、皮肉なことに、ロシアの近代化を強引に推し進めようとしたピョートル大帝でした。かれは人頭税と兵役の義務化を制定しましたが、それと引き替えに領主の農奴に対する法的権利の強化を認めました。このため、農奴は人頭税の財源として土地に縛り付けられ、売り買いの対象になってしまいました。さらに、「啓蒙君主」エカチェリーナの治世は「貴族には天国、農民には地獄」をもたらしたと評されています。貴族の特権をふやし、領主の権限を強め、その一方で、農奴の権利を奪ったのです。きっかけは在位11年目に起きたロシア史上最大の農奴の反乱「ブガチョフの乱」でした。この反乱をうけエカチェリーナは「改革」に着手します。地方の治安維持のために、行政、司法、警察権をすべて地方の貴族(地主)に一任したのです。この結果、領主は殺すこと以外なら農奴に何をしてもいいということになりました。こうして、農奴は完全な奴隷状態におかれました。その悲惨な状況を報告した「ロシア解放思想の父」ラジーシチェフはシベリアに追放されました。
このように、ロシア近代化の父と啓蒙君主の母の元で、農奴制は「完成」され、ロシアという国家は近代化と逆行する社会構造へと硬直化していきました。西ヨーロッパで産業革命が進行中の19世紀半ばになっても、ロシア人の多くが農奴で占められるという、近代社会に移行することが困難な危機的状況が続いていたのです。
暴力革命
西欧文明を取りこんでロシアを近代化させるにあたって、ピョートルは2つの方策を用いました。一つは、オランダ、フランスなどヨーロッパ「先進国」の人間をロシアに連れてくることです。これは、手っ取り早い効果が期待できますし、実際、好条件につられ、西欧からさまざまな技術を携えた人間がロシアに移住、サンクトペテルブルクやモスクワには外国人街ができました。もう一つの近代化策は、ロシア人自身、とくに 若いロシア人にヨーロッパ文明の技術を学ばせることでした。多くの貴族の子弟が西欧文明を学び、フランス語は公用語に近いものとさえなりました。
しかし、そうした西欧文明は上層階級に共有されただけで、食べるだけで精一杯の大多数の農奴にとってはあずかり知らぬものでした。こうして、キリスト教を別にすると、二つの階層の文化的基盤はさらに引き裂かれることになります。
さらに、先進的な西欧文明に学んだ貴族の子弟たちの間で、専制国家ロシアにとって不都合な考えも芽生えてきました。
ピョートル大帝はロシアの若者がヨーロッパ文明の技術面のみを習得してくれることを期待していたはずです。しかし、そんなに都合よく事は運びませんでした。若者の多くは、近代化技術を学ぶ過程で、必然的に近代西欧思想にも触れ、そうした思想から自国を見つめ直すようになったのです。その結果、西欧諸国の自由主義に触れた一部の若者たちは、専制政治の変革を求めるようになります。しかし、ロシア政府はそれに対し強圧的な弾圧でのぞみました。そのことが、正義感に燃える若者たちの怒りに油を注ぎ、暴発を引き起こしました。
その最初の例が、1825年12月14日、皇帝アレキサンドル一世の急逝直後におきたデカブリスト(12月党員)事件です。事件を主導したのはロシア軍の将校たちで、そのほとんどが貴族の子弟でした。かれらはナポレオンを追撃してパリに入った際、革命によって絶対王政の軛を脱し、自由を謳歌するパリ市民を目の当たりにしました。そして、自由を扼殺している自国の専制政治と引き比べ慄然とします。帰国後、かれらは専制政治打倒、立憲君主制樹立、農奴解放を目指した秘密結社を結成、アレキサンドル一世の急逝によって生じた政治的空白を狙って、軍事的クーデターを企てました。しかし、この試みは失敗に終わり、クーデターを主導したペステリ以下5名は死刑、反乱に参加した100名以上の「デカブリスト」がシベリア流刑に処せられました。シベリア流刑になったデカブリストの一部の妻たちは夫の流刑地につき従い、その地で長年居住することになります。デカブリストとその妻たちはロシア専制体制打倒を希求する人々にとっての殉教者的存在となりました。
デカブリスト事件後、激しい反動の嵐が襲います。
アレキサンドル一世のあとをうけて皇帝となったニコライ一世は、勤勉で有能な人物でした。しかし、自らの皇帝就任に際してクーデターを経験したこの専制君主は、厳重な検閲制度と監視制度によって国民を強圧的に押さえ込もうとしました。皇帝直属の政治警察、第3部を創設、「危険人物」、「危険集団」を監視させたのです。この強圧的政策によって、他のヨーロッパ諸国ではさまざまな革命騒ぎが頻発しているのに、アレキサンドル一世治下のロシアでは争乱が起きることが一切ありませんでした。しかし、そのことは、農奴制の残存に象徴されるように、数十年にわたってロシア社会の近代化を押しとどめる結果にもなりました。
そうした状況にあって、政治的発言を封じられた誠実な若者たちに唯一残されたはけ口は、文学でした。たとえば、ドストエフスキーを激賞したベリンスキーも、モスクワ大学在学中に発表したドラマが専制政治批判と指弾されて大学中退のやむなきに至り、唯一の発言の道を文芸批評にみつけた社会主義者でした。ベリンスキーのあとにはチェルヌイシェーフスキイ、ドヴロリュウボフ、ピイサレフといった苦行僧のような著述家が続きます。一方、プーシキンを筆頭とする詩人や小説家など文学者たちも、先進西欧諸国からの最新思想によって心に描いたあるべき祖国の姿と専政政治によって窒息寸前の前近代的自国の狭間にあって絶望するしかありませんでした。かれらの作品はその絶望を吐露したものという見方もできます。共通の文化基盤を持たない支配階級と農民(農奴)階級にはさまれ、のたうち回る文学者たち知識人は、インテリゲンツィアと呼ばれるようになります。ドストエフスキーもその一人で、かれの文学もこうした異様な環境の中から生まれ出ました。整然として、一見、穏健とも見えるツルゲーネフやトルストイの小説も例外ではありません。アナーキスト的絶望がその底に秘められていて、その叫びとでもいうべきものが、世界中を驚かせた傑作群に結実したのです。
しかし、1870年代にはいると、言論だけではなにも変わらない現状に飽き足らなくなった若者たちが行動を求めて農村に向かいます。「人民の中に(ナロードニキ)」と呼ばれる運動です。この運動を先導した若者たちの多くも貴族階級で、農民たちの貧しさに比較して土地や財産に守られた自分たちは恵まれすぎているという疚しさがその運動の根底にはあったようです。自分たちの特権を拒否し、農民に仕え、農民と交わるために農村に向かったのです。しかし、知識人階級、貴族階級の若者と農民の間には教養、宗教、思想の面において埋めきれない断絶がありました。肝腎の農民の理解が得られず、運動は挫折します。
残されたのは実力行使による体制変革でした。皇帝独裁体制を手っ取り早く打ち倒す方法は明らかです。皇帝を抹殺すればいいのです。絶対権力を握っている頂点が消失すれば支配構造は崩れ落ちるはずです。こうして、列車爆発、冬宮食堂爆破など、執拗に、何度も、皇帝暗殺が企てられましたが、ことごとく失敗に終わります。しかし、10回以上失敗を繰り返した後、1881年3月1日、ドストエフスキーの死の約1か月後、ついに、アレキサンドル2世が自爆テロによって暗殺されます。
しかし、皇帝暗殺によっても専制政治は消滅しませんでした。それどころか、デカブリスト事件後同様、当局の激しい締め付けが始まります。しかし、それにもかかわらず、革命の試みはあとを絶ちませんでした。そして、ご存じのように、第一次世界大戦のさなか、レーニンたちが主導した共産党革命によってロシア帝国は最終的に消滅します。
ロシア正教
19世紀ロシアとドストエフスキーについて考える場合、もうひとつ、宗教のことも考えておく必要があります。
ロシアではキリスト教が専制政治を支える柱の一つでした。ただし、キリスト教といっても、ロシア人が信奉してきたのは、西欧諸国にひろまっていたカトリックではありませんし、ましてや、プロテスタントでもありません。10世紀末にキエフ・ロシアのウラジーミル大公が洗礼を受けて以来、ロシアのキリスト教はビザンツ帝国の流れをくむ東方正教会でした。
15世紀、モスクワ公国をはじめとするロシア諸国がモンゴルによるタタールの軛から自らを解き放って独立した頃、ビザンツ帝国が崩壊します。モスクワ大公、イワン3世は最後のビザンツ皇帝の姪を妻に迎え、一方、オスマントルコから逃げ出した東方正教会の聖職者たちが、同一宗派ということでロシアに流れ込み、国家の保護のもとにおかれます。さらに、モスクワ公国はビザンツ帝国の国章「双頭の鷲」を受け継ぎ、ビザンツ帝国の後継国家のごとく振る舞い始めました。そうした中、モスクワはローマ、コンスタンチノープルにつぐ「第3のローマ」だとおべっかをいう聖職者が出現、モスクワ公国の王はツァーリ(Czar (古代ローマ皇帝Caesarに由来))を自称するようになります。
しかし、「国家宗教」ロシア正教会は御用宗教としての権力、財力は与えられていましたが、逆にそのせいもあって、保守的で、自己変革能力に欠けていました。人々の尊崇を集める宗教家を輩出することはありましたが、フランチェスコ、ルター、ザビエル、あるいは、日本でいうと、一遍、親鸞、明恵といった革新的な宗教家を生み出す力をほとんどもち合わせていませんでした。
唯一、17世紀半ばに総主教になったニコンが、制度改革を行おうとしましたが、聖職者や民衆の頑強な抵抗にあいます。そのうえ、ニコンは総主教の地位を皇帝よりも上位におこうとして、皇帝に総主教の座をとりあげられ、改革は挫折します。ただし、ニコンの制度改革による儀式上の変更はある程度継続されました。
ロシア正教では、ビザンツ伝来の神々しい宗教儀式が信者に神を体感させ、儀式が信仰そのものという一面がありました。事実、ウラジーミル大公がカトリックやイスラム教ではなくビザンツの東方正教会を信仰するようになったきっかけも、キリスト教やイスラム教の調査に向かった使者がビザンツの荘厳な宗教儀式に感銘をうけ、大公にギリシャ正教の採用を勧告したせいだといわれています。このため、農民やコサックらの下層民や一部の聖職者はニコンが主導した儀式変更がそのまま継続したことに憤激、その中から分離派(ラスコールニキ)(別名、古儀式派)が生まれます。激しい弾圧にも屈せずラスコールニキは、キリストの受難を追体験しようと自らをむち打つ鞭身派、去勢術を施す去勢派といった過激な戒律の分派までを生みだしながら、その後何百年にもわたってロシア国内でさまざまな抵抗を続けます。ドストエフスキーが「罪と罰」の反社会的主人公に分離派をもじってラスコオルニコフの名前をつけていることはよく知られています(ラスコーリニコフのフルネームは、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ Родион Романович(Романыч)・Раскольниковで、順番に「祖国」「ロマノフの」「叩き割る」、つまり、「ロマノフの祖国を叩き割る者」という語義になるようです(亀山郁夫(2021)日本てんかん学会特別講演)。そして、鞭身派、去勢派は「女主人」「白痴」などのドストエフスキーの小説で活躍することになります(亀山郁夫(2021)日本てんかん学会特別講演)。この分離派による「反宗教改革」がロシア宗教史上の唯一の革新的光明といえるかもしれません。しかし、乱暴な言い方をすれば、表面上、ロシアは「神と同等の」皇帝のもと、宗教によって多大な恩恵を被っている御用聖職者、「無知蒙昧で信心深い」圧倒的多数の下層民、農奴で埋め尽くされていたことになります。この宗教的不毛地帯に「無神論」が19世紀ロシアの心ある知識人の間に侵食していったのも無理からぬことでした。
ベリンスキーと無神論
ドストエフスキーの「貧しき人々」を激賞したベリンスキーからして、無神論者の筆頭でした。前に触れたように、ベリンスキーは専制君主制と農奴制からなるロシア社会の変革を熱望する社会主義者でした。しかし、デカブリスト事件後、官警の厳しい監視のもとでその真情を吐露するには文芸批評しか道がないという、ただそれだけの理由で批評家の道を選んだ人物でした。ベリンスキーはマルクスたちの「われらはまず第1に無神論的団体である」というインターナショナルの宣言を字句通り受け入れ、ドストエフスキーにはじめて会ったときも「いきなり無神論から話をはじめ」ました。ベリンスキーは「一切の根底が精神的要素であるということを知って」いました。「しかし、一個の社会主義者として、何よりもまっさきにキリスト教をその台座から引きずり落とさねば」なりませんでした。「革命が必ず無神論から始まらなければないのを知っていた」のです。また、あるとき、ドストエフスキーに向かってベリンスキーは「社会がこんなにも陋劣な組織になっていて、どうしても悪事をはたらかざるを得ないようになっているのに、経済的にいって、悪事にまきこまざるをえないのに、人間の罪悪を数えたてて、さまざまな義務を負わしたり、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、などと要求するのは不可能です」と主張したそうです。
そして、同席していた友人にむかってベリンスキーは「ぼくはこの人をみると、涙ぐましい気がするくらいなんですよ」とドストエフスキーのことを揶揄したそうです。「いつもぼくがこんなふうにキリストの名を口にするたびに、この人は顔色をすっかり変えて、まるで泣き出さないばかりなんですからね」
ドストエフスキーの改心
以上は、ドストエフスキーが1873年に当時を回顧して書いたものの引用です(「昔の人々 作家の日記1873年、 米川正夫訳」)。ベリンスキーと袂を分かったものの、当時の知識人同様、ドストエフスキーも「神を捨て」ます。
しかし、この「作家の日記」の文章のあとには、シベリア流刑の途上においてナターリャ・フォンヴィージン夫人から新約聖書を贈られたという記述が続きます。フォンヴィージン夫人はデカブリストの一員としてシベリア流刑の身となった夫に付き従い25年間シベリアで過ごした女性で、その聖書はシベリアのオムスク要塞の獄中でドストエフスキーが唯一読むことを許された書物でした。ドストエフスキーは、疑問が生じる度に、この聖書を読み返したようです。このフォンヴィージン夫人にドストエフスキーは出獄後、手紙を書いています。
「……自分の苦しみ抜いたもの、堪え忍んだもの、人から奪われたものを掛けて見て、本当の重みを知るのです……そうした瞬間には『枯れかかった葉』のように、信仰を渇望し、かつそれを見いだすものです。それはつまり、不幸の中にこそ真理が顕れるからです……わたしは世紀の子です……不信と懐疑の子です……しかし、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します……もしもだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう」
「死の家の記録」の中で主人公は自分の過去を徹底的に見直したと語っています。これは、シベリアの監獄でのドストエフスキーの生活をそのまま反映しているものと推測されます。死の手前にまで行った処刑劇とシベリアの監獄体験をきっかけとして、ドストエフスキーは正義実現のためには手段を選ばないという、デカブリストに始まってロシア革命にまで延々とつながっていく流れの危険性を徐々に認識するようになります。それは「男たちや女たちに、別の男や女たちのことを神だの蛇蝎だのとみなすよう、そそのかす」(イーグルトン 「イデオロギーとは何か」 )正義主義(イデオロギー)が内包する危険性の認識だったのかもしれません。「人間が何らかの重大な理由で争い殺しあうとき、たとえばその理由というのが生存そのものにかかわるものであれば、それは理解できないわけではない。ところが人間が、どういう筋道をへて、観念などという、どうみても抽象的なものの名において争い殺し合うようになるのか、これを理解するのはかなり難しい」とイーグルトンは書いています。しかし「観念とは、男たちや女たちが、それなくしては生きられないもの、時には、そのために命をかけるもの」です。実際、ドストエフスキー自身、あの処刑劇において死刑宣告に臨んでも「われわれが告発される原因になった事柄、われわれの精神を支配していた思想や観念は、悔悟を要しないものと思われたのみならず、むしろなにか自分たちを浄化する殉教的なもののように」感じられたと回想しています(「作家の日記」16 現代的欺瞞の一つ)。「その気持ちは長く続」き、「流刑の幾年間も、苦痛も、われわれの意志を砕きはしなかった」というのです。
しかし「なにかしらある別のものがわれわれの見解、われわれの信念、われわれの心情を一変させ」ます。この「あるもの」というのは「民衆との端的な接触」「共通の不幸の中における彼らとの同胞としての結合」だったとドストエフスキーは説明しています。「国民的根本へ復帰し、ロシアの魂を認識し、国民精神を悟った」というのです。ロシアの魂を語りながら、ドストエフスキーは少年時代、父の地所で出会って、獄中、夢枕に立った心優しい農奴を思い出していたのかもしれません。あるいは、シベリア流刑中に出会った「神の横に座すべき」心美しい犯罪者たちのことを思い浮かべていたのかもしれません。
しかし、かれの説明にはいまひとつ曖昧なところもあります。そのように述べながら、あとになって「わたしの信念の更正の歴史を語ることは、はなはだ困難である」と述懐しているからです。出獄後、ドストエフスキーは3回、ドイツ、フランス、イギリス、スイス、イタリアなど「先進的」西欧諸国を見て回り、どうやら、相当に失望したようです。産業革命を成し遂げた西欧式合理主義は人類を破滅に追いやるかもしれない、むしろ、無垢なロシアこそが人類を救うのだと後年かれは主張するようになります。しかし、そこに至る道程は、彼自身にとっても、曰くいいがたいものだったようです。
ただし、ロシア信仰とも言うべきこの信念が流刑体験に根ざしていたことだけはたしかなようです。晩年、ドストエフスキーが当時流行の唯物論を批判し、ロシアの魂について語ったところ、ある学生がロシアの人々についてそんな風に語る権利があなたにあるのかと問いただしたことがあります。これに対し、ドストエフスキーは突然ズボンの裾をまくり上げ、足枷の傷跡の残る脛をみせて「これがそのように語る権利だ」と答えています(A one-Day Newspaper of the Russian Bibliogical Sosiety. Moscow, 30 0ctorber 1921 The Dostoevsky Archive)。
いずれにしても、社会正義実現のために文字通り命をかけ、死の淵をのぞき込み、生還したのち、ドストエフスキーは多種雑多な「犯罪者」が交錯する牢獄を体験し、徐々に正義主義の不毛性を認識するようになったようです。そして、マルクスが「民衆のアヘン」と吐きすてたキリスト教に真の心の自由の可能性をみいだすようになります。こうして、「キリストの名を口にするたびに、顔色をすっかり変えて、まるで泣き出さないばかり」だったドストエフスキーは、キリスト教に回帰し、最終的に「カラマーゾフの兄弟」の高みに達します。
シベリア流刑以降
受刑者たちがひしめく劣悪な環境のオムスク監獄でドストエフスキーは鎖の足枷をはめられ、プライベートな時間を完全に奪われて4年間を過ごしました。受刑者の中にはもちろん箸にも棒にも掛からぬ極悪非道な人間もいましたが、一方では、殺人、強盗などの罪で受刑しているにもかかわらず、勇気、寛容、思いやりに満ちた「神の隣の座を占めてもおかしくない」人間も少なからずいました。世の常識的な道徳律を適用し得ない世界があることをドストエフスキーは身をもって体験しました。そして、そうした「善悪の彼岸」が監獄外の世界にもありえることをのちに小説で示すことになります。
1854年2月15日、33歳の年、ドストエフスキーは出獄し、第7シベリア歩兵大隊に配属され、キルギス平原に近い人口5千の街セミパラチンスク(現セメイ)で一兵士として兵役に服することになります。待ちに待った、解放の日でした。死刑を免れた感激の中で「どれだけ時が浪費され、迷いと、過失と、安逸と、無能な生活ぶりの中に過ごされたか、自分がいかに時を貴ぶことを知らなかったか、幾たび自分の心情と精神に悖ることをしたか、そのことを考えると、われながら心臓に血のにじむ思いです」と兄に書き送ったドストエフスキーです。「ひとときも時間を無駄にしまい」と誓っていたに違いありません。まだ兵役が残っていたので、文学に没頭できる環境にはありませんでしたが、それでも、創造意欲は燃えさかっていたはずです。すぐに傑作小説が生まれてもおかしくありませんでした。
しかし、事はそううまく運びませんでした。
エパンチン将軍夫人と3人の姉妹の前でムイシュキン公爵が例の銃殺刑が直前になって免除になった男の話をする「白痴」の1場面で、長女のアレキサンドラが「そのかたは減刑になったのでしょう、つまり、その『無限の生活』を恵まれたのでしょう。で、それから後、その莫大な富をどうなさったのでしょう」と尋ねます。ところが、これに対し、ムイシュキンは「まるっきり違った生活をして、多くの瞬間を空費したそうです」とあっけらかんと答えています。ドストエフスキーも、同様に、出獄後しばらく「多くの瞬間を空費」することになります。
最初の妻マリア
多くの瞬間を空費することになった原因の一つが、マリア・ドミートリエヴナという人妻でした。ドストエフスキーの友人だったセミパラチンスク地区検事ヴランゲリ男爵によれば、マリアは「中背のちょっとかわいいブロンドで、とても痩せており、情熱的で洗練された」30代前半の女性でした。夫のイサーエフは教師で、マリアの父親が校長だった縁でマリアと結婚することになったようです。しかし、イサーエフは結核に罹患し、さらに、アルコール中毒にも陥り、マリアは不幸な結婚生活を送っていました。同情心もあったのでしょう、ドストエフスキーは逆上したかのようにマリアに入れ込みます。ところが、マリアのほうは、どうやら、さほどのぼせていなかったようです。ドストエフスキーを不幸な運命を背負った人物として憐れんではいたものの、てんかん持ちの、いつも金に困っている、将来の見込みのなさそうな男とみなしていました。ところが、そんな憐れみによる同情を愛情と取り違え、ドストエフスキーはマリアの息子の家庭教師を買って出て、イサーエフ家に一日中入り浸るようになります。30過ぎというのに、まるで、うぶな初恋の青年でした。やがて、イサーエフはセミパラチンスクから600キロも離れたクズネーツクに職を見つけ、一家は引っ越すことになります。マリアに会えなくなると知ったドストエフスキーは気が動転、絶望のどん底に突き落とされます。つねにドストエフスキーへの援助を惜しまなかったヴランゲリは、イサーエフ一家が旅立つ日、とびきり上等のシャンパンをイサーエフにふるまって前後不覚になるまで酔わせ、不倫の恋人たちに別れの舞台をつくってやりました。
まもなく、イサーエフが死んだという知らせが届きます。チャンス到来とドストエフスキーは心躍らせます。ところが、マリアからは年若い教師に求愛されているという神経を逆なでするような手紙が届き、ドストエフスキーは再び半狂乱に陥ります。ヴランゲリたちに頼み込んで、マリアへの年金が国庫から早く出るよう斡旋してもらい、マリアの息子、パーヴェルが士官候補生隊に特待生として入隊できるように手配します。うまい具合に、ちょうどこの頃、ヴランゲリたちの運動が功を奏し、ドストエフスキーは一兵卒から将校待遇に昇進します。こうしたことが効いたのかどうか、よくわかりませんが、ともかくも、マリアの心はドストエフスキーに傾き、1856年2月6日、二人は結婚します。ドストエフスキー34歳の時です。
しかし、マリアにとって、この結婚はあまり気乗りのしないものだったようです。結婚直後、ドストエフスキーがてんかん発作を起こしたこともよくなかったのかもしれませんが、マリアの気持ちは徐々にドストエフスキーから離れていきました。ドストエフスキーも同じでした。「情熱が反省に変わり、反省が幻滅に変わって(E.H.カー)」いきました。マリアはイサーエフとの間にパーヴェルを生んでいますし、ドストエフスキーも2番目の妻との間にはたくさんの子どもを授かっています。しかし、マリアとドストエフスキーの間には子供は生まれませんでした。やがて、結婚前から罹患していたマリアの結核が悪化、マリアは臥床生活を余儀なくされます。こうして、マリアが早逝する日まで、不幸な結婚生活が続くことになります。
雑誌「時代」
しかし、ともかくも家庭を持つことである程度の落ち着きを取り戻したドストエフスキーは執筆活動を再開します。まずは、中編小説「スチェパンチコヴォ村とその住人」「叔父様の夢」を発表しました。しかし、この2編はドストエフスキー自身にとっても意に満たない出来だったようです。世評もさほどのことはありませんでした。しかし、てんかんを含む病弱を理由とした兵役免除の嘆願書を皇帝に提出したところ、秘密警察の監視下に置かれるという条件つきではありますが、うまい具合に兵役を解除されます。こうして、待ち望んでいたペテルブルグへの帰還が実現すると、オムスク監獄出獄直後から書きためていたノートに基づいて「死の家の記録」の執筆を開始します。当初「死の家の記録」は「ロシア世界」誌で連載が始まりましたが、のちに、兄ミハイルとはじめた雑誌「時代(ヴレミャ)」に転載され、成功を収めます。オムスク監獄の徒刑囚の生活を淡々とつづったドキュメントですが、ドストエフスキーを否定的にみていたトルストイもこの作品だけは絶賛、ツルゲーネフに至ってはドストエフスキーをダンテに比肩するほどの称えようでした。
雑誌「時代」は、文学への思いを断ち切れずにいた兄のミハイルが、弟の執筆活動再開にあわせ、煙草工場の事業をなげうって創刊した雑誌でした。ミハイルが雑誌を運営し、ドストエフスキーが編集長の役目を引きうけました。「死の家の記録」以外にもドストエフスキーは「虐げられし人々」を連載、さらに、文学評論、政治評論も執筆し、雑誌寄稿者との交渉に当たりました。ドストエフスキーの働きが功を奏したのか、「時代」はうなぎ登りに部数を増やし、経費を差し引いても毎号、相当な黒字を残すようになります。
この間、1862年6月から8月まで2か月間、40歳になったドストエフスキーはドイツ、フランス、イギリス、イタリアを回って過ごし、同年冬、「冬に記す夏の印象」という西欧旅行記を「時代」に連載しています。ただし、これら西欧諸国にあまりいい印象を受けなかったのは前にお話ししたとおりです。
しかし、「先進的」西欧諸国に失望したのはひとりドストエフスキーだけではありませんでした。
1840年代、ドストエフスキーがペトラシェーフスキー事件に連座した頃、フランスをはじめとする西欧諸国では革命的情熱が燃えさかり、ロシアの知識人たちにとって憧憬の的になっていました。しかし、1948年、パリをはじめとして多くの国で革命が起きたものの、その後、ルイ・ナポレオンの統治に象徴されるように、さまざまな反動の嵐が押し寄せます。そうした西欧諸国の実情に幻滅したロシア知識人の一部は、180度方向を転換、ロシアそのものに価値を見出すようになります。いわゆるスラブ主義です。しかし、一方で、西欧風自由主義を以前と変わらず信奉する西欧主義も残存しました。クリミア戦争の敗北で、失意の中、厳格な専制君主ニコライ一世が亡くなり、穏健派と噂のアレキサンドル二世が皇帝に即位すると、当局の思想統制もゆるみ、農奴解放の噂が流れるようになります。ペテルブルクにドストエフスキーが戻ってきたのはちょうどその頃で、言論界はスラブ主義と西欧主義に二分されつつも、開放感に充ちあふれ、沸き立っていました。
そうした中、雑誌「時代」はスラブ主義、西欧主義のいずれにも与しないことを宣言します。「完全に独立独歩の、いかなる党派にも関係のない……敵対感情をもたぬ、オーソリティーに拝跪することのない、完全に公平無私な、新鮮な文学機関を創設すること」をミハイルは目指していました(ドストエフスキー「ミハイル・ドストエフスキイについて数言」 ドストエフスキイ全集20 論文・記録下)。政治的には中道路線を旗印に掲げたといえるでしょう。当初、この旗印は人々に新鮮な印象を与えたようです。しかし、二つの政治的勢力が激しい鍔迫り合いを繰り返す中での中立表明は危険です。日和見主義と揶揄され、両陣営からの攻撃の矢面に立たされる恐れがあるからです。事実、この曖昧な政治的姿勢があだとなって、順風満帆とみえていた「時代」は突然、発行停止命令をくらいます。
発行停止の遠因は1863年に起きたポーランド反乱でした。かつての大国ポーランドは内乱を繰り返す中で18世紀後半に分割され、その大半はロシアが支配するところとなっていました。しかし、昔日の栄光を知るポーランド人の間にはロシア支配への憤懣が鬱積、その怒りがいつ噴出してもおかしくない状態にありました。そうした中、1863年1月にポーランドで反乱が始まります。しかし、ロシアによる徹底的な弾圧によって、秋までに反乱は終熄しました。スラブ主義者も西欧主義者もこの微妙な問題には口をつぐみ、雑誌「時代」も慎重な態度をとっていました。
そのような時、ストラーホフの「致命的な問題」という論説が「時代」に掲載されます。ポーランドの文学的成果を称揚し、ロシアはポーランドと鉄砲や大砲ではなく芸術を武器として戦うべきだという趣旨の論文でした。一見もっともらしい穏健な論文で、当局の検閲もなんなく通りました。ところが、発刊後、ロシア文化に対するポーランド文化の優位性を主張するものだと指弾する右翼雑誌の激しい攻撃にさらされます。そのうち、当局も、これを無視できなくなり、結局、皇帝の裁可の下、「時代」に発行停止命令が下ります。ドストエフスキーたちの弁明は却下されました。スラブ主義陣営からも西欧主義陣営からも「中立派」雑誌「時代」を擁護する意見はでませんでした。
景品つき煙草という奇抜な商法で儲けた金すべてを雑誌「時代」につぎ込んでいた兄のミハイルは、全財産を失い、ドストエフスキーは定収入の道を閉ざされます。
愛人
ところが、「時代」廃刊騒ぎのさなか、ドストエフスキーは愛人と連れ立って2度目の外国旅行に旅立とうとしていました。
1861年、「時代」にアポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワという女子大生の短編が掲載されていましたが、2度目の外国旅行に同行する予定だったのは、このスースロワでした。

アポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワ |
スースロワの父親は、もともと農奴でした。しかし、強靱な意志、人並みはずれた能力で農奴の身分を脱し、手広く企業を営むようになった、やり手でした。そして、築き上げた資産で娘たちに高等教育を受けさせました。そのかいあって、ポリーナの妹ナデージダはロシア史上初の女性医師になっています。一方、姉のポリーナは、妹のような栄光とは無縁でしたが、アレキサンドル二世時代の開放感に充ちた空気に鋭敏に反応し、自由奔放に生きる「新しいタイプ」の女性でした。しかも、父親からは鋼鉄のような性格を譲り受けていたようです。のちにポリーナと結婚したローザノフは彼女のことを「異常なまでの集中力、決断力を持つ女性」と評しています(ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」みすず書房)。「気性は完全にロシア女でしたが、ロシア女はロシア女でも、分離派の”無僧派”の女でした。いや”鞭身派の聖母”といった方がいいでしょう」とも書いています。ローザノフはのちにドストエフスキーの伝記も書いた文学者ですが、結婚後数年して、男を作ったスースロワに逃げられてしまいます。復縁を哀願するローザノフにスースロワは「何千という夫があなたのような立場に立たされますが、吠えたりはしませんよ、人間は犬ではないのですからね」とすげなく答えています。
当初、ドストエフスキーはこのスースロワと一緒にペテルブルグを出発して1863年の夏の間フランス、イタリアを旅する予定でした。しかし、妻マリアの転地療養の手配、借金の手続き、旅券更新に手間取って、その間に愛人は先にパリへ旅立ってしまいます。ドストエフスキーはスースロワに一ヶ月以上も遅れて出発しました。にもかかわらず、途中、ヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレット賭博に4日間を費やします。ようやくパリに着いたドストエフスキーを待っていたのは「あなたは来るのが少し遅すぎた」というスースロワの言葉でした。彼女はパリで新たにスペイン人の恋人を作っていたのです。しかし、ドストエフスキーがパリに着いた頃、そのスペイン人の恋人はスースロワに飽きがきていたようで、病気を理由に彼女と会おうとしなくなっていました。愛人に捨てられかかったドストエフスキーと新たな恋人に捨てられたスースロワは「兄と妹」という関係を保つことを条件にイタリアに出発します。しかし、途中、二人はまたもヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレットで有り金すべてをまきあげられてしまいます。ミハイルをはじめとする親戚、出版社からかきあつめた借金でようやくヴィースバーデンを出立、ジュネーブ、トリノ、ジェノア、ローマ、ナポリと南欧各地を転々とします。そして、10月になってようやく二人は別れることになり、この奇怪な情事旅行は終幕をむかえます。しかし、その後も、スースロワがドストエフスキーにマリアとの離婚を迫ったり、マリアの死後、ドストエフスキーがスースロワに結婚を申し込んだら今度は拒絶されたりと、さまざまなすれ違いの中で、二人の関係はしばらく続きます。そして、この「鞭身派の聖母」は「賭博者」「白痴」などかれのさまざまな小説に出没することになります。
妻と兄の死
10月にロシアに戻ると、結核の末期症状を示して蒼白く痩せ細ったマリアが待っていました。マリアはすぐに死の床に伏すことになります。結婚後、自分を愛することのなかった妻をドストエフスキーは冬の間中、献身的に看病しました。しかし、自身、ひどいてんかん発作に襲われ、痔にも悩まされます。その間、兄のミハイルは懸命の努力で新たな雑誌「世紀(エボーハ)」の発刊にこぎ着けます。ドストエフスキーは「地下生活者の手記」を「世紀」のために執筆します。ドストエフスキー的世界の始まりをつげるとされるこの異様な手記の第一部は「わたしは病的な人間だ……」という言葉で始まり、「いま雪が降っている、べたべた濡れた、黄いろい、濁ったような奴だ、昨日もやはり降ったし、二、三日まえもやっぱり降った」という情景描写で終わります。おそらく、てんかん発作を繰り返す中、憔悴しきって呪いの言葉を吐き散らす妻を看病していた暗澹たるモスクワの一冬がそこに反映しているのでしょう。
1964年4月16日、妻のマリアは息をひきとります。
追い打ちをかけるように、3か月後の7月10日、数日、病の床に伏せていた兄のミハイルが亡くなりますます。持病の肝臓腫瘍が悪化し、黄疸もあったとミハイルの追悼文の中でドストエフスキーが記していますから肝硬変、肝臓癌、もしくは、がんの肝臓転移が死因だったのでしょう。セミョーノフスキイ連隊の練兵場で死刑を宣告されたとき「最後の瞬間はあなただけ、ただあなた1人だけがぼくの心に残りました」と書いているドストエフスキーです、生きる気力もなくなるほどの衝撃を受けます。しかし、愛する兄は、未亡人と四人の子ども、二万ルーブル以上の借金、そして、愛人とミハイルによって認知された愛人の子どもまで残していました。この未亡人と情婦と遺児たちを路頭に迷わせるわけにはいきません。その責務がすべてドストエフスキーの肩にのしかかりました。兄の借金に関しては、ドストエフスキーが背負うべき法的責務はありませんでした。しかし、兄の名誉を重んじて、これも引きうけることを決断します。
とりあえずは兄の唯一の遺産ともいうべき「世紀」の発刊継続に力を注ぎました。しかし、発刊は遅れに遅れ、読者が離れていき、結局、廃刊の憂き目にあいます。
これほどの不幸、不運に見舞われても、ドストエフスキーは挫けませんでした。この頃、ヴランゲリへの手紙の中でドストエフスキーは「こうして、ぼくはとつぜんたった一人になり……全生活が真っ二つに割れてしまったのです……にもかかわらず、ぼくは始終たったいま生活を始めようとしているような気がします。おかしいでしょう、ね?猫のような生活力!」と書いています。これ以降も、しばらく、かれは「猫のような生活力」で窮地を何度も脱することになります。
成就せぬ愛
失意のどん底にあったドストエフスキーは、この間、寂しさを紛らしたかったからでしょう、さらに、二人の女性と成就せぬ恋愛事件を起こしています。
一人はアンナ・コルヴィン・クリューコフスカヤという20歳の女性です。アンナは裕福な家庭の長女でしたが、良家の娘らしからぬ情熱と行動力を兼ね備えていました。騎士小説に耽溺し、女優になることを夢見ていたアンナは「世紀」に短編小説を投稿します。廃刊寸前の「世紀」は掲載原稿が払底していたためでしょう、この素人小説を掲載しました。ところが、これが厳格な父親の知るところとなり、アンナの家庭に大騒動を巻き起こします。しかし、なんとか父親への説得に成功、アンナの家族はドストエフスキーと面会します。そして、やがて、ドストエフスキーはアンナに強く魅かれ、求婚し、拒絶されます。アンナは妹に「ドストエフスキーの妻となるべき女性は、自身をすべて彼に捧げ、彼以外のことはなにも考えない人間でないと駄目」だと話したそうです。愛される女性の直感は鋭いものです。幸いなことに、ドストエフスキーはまもなくそのような奇跡的女性と遭遇することになります。
このアンナとのエピソードがあった前後、ドストエフスキーはマルタ・ブラウンというもう1人の女性とも関係をもっています。マルタの出自についてはよくわかっていません。しかし、アンナとは正反対の家庭の出だったのは間違いありません。若い頃、オーストリア、プロイセン、スイス、イタリア、スペイン、フランス、ベルギー、オランダをハンガリー人やイギリス人の男たちと連れだって放浪し、人生の「さまざまな印象を味」わい、最後は、一文無しでイギリスにたどりつきます。イギリスでは、路上で寝泊まりし、犯罪者とつきあったりしていましたが、親切なメソジスト派の牧師に救い出され、ボルチモア出身の水夫ブラウンと結婚します。しかし、イギリスを逃げださざるを得ないなんらかの事情が生じたらしく、ブラウンと別れ、ペテルブルグに戻り、「世紀」に投稿していたアルコール中毒文士ゴルスキーの情婦となります。そして、ゴルスキーの紹介で英文翻訳者として「世紀」に雇われ、ドストエフスキーと関係が生じます。ドストエフスキーは彼女にどうやら結婚を申しでたようです。それに対するマルタのあからさまな返事が残されています。
「……わたくしは肉体的の関係で、あなたを満足させることができるでしょうか、私たちの間に精神的な調和が実現するでしょうか?……たとい一瞬なりと、それともしばらくのあいだ、友情と好意を授けてくださいましたことについて、わたくしは永久に感謝します……あなたがわたくしの堕落した面をおさげすみにならず、わたくしというものを、わたくしが自分で考えている以上に、高く評価してくださったことを、物質上の利益よりもずっとありがたく存じています」
「白痴」のナターシャを連想させるこのマルタとの関係がいつまで続いたのか不明です。また、ムイシュキン公爵とナターシャ同様、ドストエフスキーとマルタが同棲していたのかどうかもわかりません。
「罪と罰」
この恋愛事件の間にドストエフスキーの経済状況は悪化の一途をたどります。亡兄の家族と義理の息子パーヴェルを養わなければなりませんでしたし、「世紀」の債権者たちはこんどこそドストエフスキーを債務者監獄に放り込んでやると息巻いていました。せっぱ詰まったドストエフスキーは、危険を承知で、悪徳出版業者ステルロフスキーから三千ルーブル借金します。借用条件は、それまでに書いた著作のすべての出版権を譲渡するというものでした。そのうえ、1年先の1866年12月1日までに新作小説の原稿を手渡さなければ、10年先まで書かれる本のすべての著作権もステルロフスキーに奪われる契約になっていました。屈辱的な「奴隷的契約」でしたが、債務監獄に放り込まれる危機に直面していたドストエフスキーはこの条件を呑んで当座をしのぐしかありませんでした。
「奴隷的」契約で借りた三千ルーブルでしたが、そのほとんどは借金返済にあっという間に消えてしまいました。なんとか残ったわずか百七十五ルーブルを懐にドストエフスキーは債権者から逃れるように1865年夏、ヴィースバーデンに逃げだします。ところが、例によってルーレットで有り金巻き上げられ、ヴランゲリ、出版社など思いつくすべての伝手に無心の手紙を書きます。しかし、すぐには、どこからも返事が来ません。そこへ、スースロワがやってきました。彼女への未練を断ち切れず、ドストエフスキーはヴィースバーデンで落ち合う約束をしていたのです。ところが、彼女もさして持ち合わせがありません。二人の宿代・食事代も払えず、かといって、ロシアに帰る旅費も捻出できない中、ようやく、手紙で借金を頼みこんでいた一人、ツルゲーネフからお金が届きます。その金でスースロワはパリに旅立ちました。しかし、ドストエフスキーは宿賃も満足に払えない状態でとり残されます。安宿では「働かざる者、食うべからず」と食事の提供を拒否され、何日も満足に食事もとれない状態が続き、質入れでなんとか食いつなぎました。
この絶望的な状況のさなか、ドストエフスキーは高利貸しの老婆を殺そうとする青年の話を書き始めます。この青年は「極度の貧窮の中で暮らしているのですが、つい軽率で、観念のぐらついているために、いま空中に瀰漫(びまん)している、ある種の奇怪な、『未完成の』思想に深入りして、一挙にしておのれの忌まわしい状態から抜け出ようと決心します」。しかし「解決することのできない問題が殺人者の前に立ち塞がり、夢にも想像しなかったような、思いがけない感情が、彼の心を苦しめるのです。神の真理、地上の掟が勝ちを制して、彼はついに、自首せざるを得なくなります」
ロウソクの灯りにも事欠く安宿の一室でこの小説を書いているうちに、ようやく、ヴランゲリからの送金が届き、ドストエフスキーはヴランゲリの勤務先、コペンハーゲンに向かいます。その後、ペテルブルグに戻りますが、全面的に書き直されながらも、この小説は書き継がれ、1866年1月号の「ロシア報知」に掲載されました。「罪と罰」という題名のこの小説は読者の圧倒的支持を受け、ドストエフスキーはロシアを代表する作家の一人とみなされるようになります。
第2の妻アンナ
「罪と罰」は大成功でした。しかし、ステルロフスキーと契約した12月1日という締め切り期日が目前に迫ってきていました。新たな小説の腹案はほぼできあがっていましたが、「罪と罰」の執筆に時間をとられ、10月に入っても約束の小説は一行も書かれていませんでした。追いつめられたドストエフスキーは友人の勧めに従い、速記者を雇って口述筆記によって新たな小説を1カ月で仕上げようと目論みました。速記者としてやって来たのは、速記学校に通う20歳になったばかりの女性、アンナ・グリゴ-リエブナでした。
アンナの父親は「市会か役所かにつとめて」いたということですから役人だったのでしょう(アンナ・ドストエフスカヤ 「回想のドストエフスキー」)。41歳の時、13歳年下のアンナの母親と結婚したこの父親は「貧しき人々」を書いたドストエフスキーを天才と激賞、シベリアからのドストエフスキーの「奇跡的復帰」に驚喜し、娘に「ドストエフスキー熱」を吹き込んでいました。おかげで、アンナは雑誌「時代」に掲載された最新作「死の家の記録」「虐げられし人々」や「ロシア報知」掲載の「罪と罰」を夢中になって読んでいました。ところが、父親はアンナがドストエフスキーと出会う半年前に死んでしまいます。アンナにとっては「生まれて初めてであった大きな不幸」で「来る日も来る日も父の墓地のあるポリシャーヤ・オフタに行って泣きくらしたが、それでもこの悲しい出来事をあきらめ」きれませんでした。
アンナがドストエフスキーの口述筆記の仕事を紹介されたのは、こういう時でした。
最初のうちアンナもドストエフスキーも、お互い、あまりいい印象をもたなかったようです。しかし、口述筆記によって新たな小説「賭博者」の原稿が期日に間に合うかもしれないという希望がみえてくると、二人はうち解けて話すようになります。そして、たがいに惹かれ始めます。
「賭博者」は約束の期日前に仕上がり、草稿は「送付証明書」つきでステルロフスキーのもとに送られました。こうして、ドストエフスキーは窮地を脱します。
一息ついたところで、ドストエフスキーは空想の小説の筋を語って遠回しにアンナに求婚の思いをほのめかしました。拒絶されるのは覚悟の上だったでしょう。ところが、奇跡がおこります。同世代の青年の空虚な会話よりも天才の言葉に魅了されていたアンナが結婚を承諾したのです。
1867年2月15日、イズマイロフスキー寺院で二人は結婚式を挙げました。ドストエフスキー45歳、アンナ20歳でした。
新婚生活はアンナにとって苦痛に満ちたものでした。まず、10日間「シャンパン漬け」になっていたドストエフスキーが立て続けに2度、てんかん発作を起こします。さらに、ドストエフスキーの兄嫁や義理の息子パーヴェルとの軋轢が激しくなります。ドストエフスキーにぶら下がるように生活していた二人にとってアンナは自分たちの生活を脅かす闖入者でしかありませんでした。かれらはドストエフスキーの再婚に猛反対し、結婚後もアンナを敵視していました。何とか二人を離婚させるべく策略をめぐらしました。少なくともアンナにはそうとしかみえませんでした。ことあるごとに彼女の神経をいらだたせたのです。とくに、新婚夫婦と同居していたアンナとほぼ同い年のパーヴェルはアンナにとって耐え難い存在でした。さらに、莫大な借金の債権者も押し寄せてきていました。夫をかれらから引き剥がすため、アンナは拝み倒すようにドストエフスキーを説得、嫁入り道具を質に入れた金で外国旅行に旅立つことを了承させます。結婚式の2か月後のことです。兄嫁やパーヴェルの強硬な反対を押し切って、二人はベルリンに旅立ちます。
海外生活
ベルリンを経由して、かれらは、まず、ドレスデンに腰を落ち着けました。ここでアンナは結婚式以来はじめて「敵意の輪」から解放され、心の平安を得ました。しかし、ドストエフスキーはすぐに平穏無為の生活に飽きてしまいます。一攫千金と興奮を求めて、若い妻をドレスデンに残し、ホンブルグにルーレットにでかけていってしまいました。そして、有り金すべてをすってしまいます。何度も金の催促の手紙を書いてよこした挙げ句、8日たって、ようやく、ドストエフスキーはドレスデンに戻ってきました。寛容な幼な妻はそのことをまったく責めませんでした。
その後、スイスに向かうはずでしたが、予定を変更して、こんどはアンナと連れ立ってヴィースバーデンによります。ドストエフスキーとしては、ベリンスキーについて書いた原稿料を元手に今度こそルーレットで「窮地を脱する」つもりでした。しかし、もちろん、さらなる窮地に追い込まれます。ホテルにアンナをおいて賭博場にでかけていっては、よろめきながら舞い戻ってきて「しょげかえり、むせび泣き、自分のせいでおまえをこんなに苦しめてすまないとひざまずき許しを請う」ということを、いつ果てるともなく繰り返しました。結婚の時ドストエフスキーがアンナに贈ったブローチとダイヤとルビーのついた耳飾りも含め、ありとあらゆるものが質に入れられ、その多くは二度と帰ってきませんでした。宿屋の女主人や小口の債権者に嫌みを言われながら、アンナは質草によってひねり出したなけなしの金を夫に渡し続けました。しかも、この困窮のさなか、ドストエフスキーは義理の息子パーヴェルや兄嫁への送金だけは欠かさず、アンナの神経をいらだたせました。
よくもまあ、これで、離婚に至らなかったものです。
しかも、アンナへの打撃はてんかん発作、親族とのいざこざ、賭博、借金だけではありませんでした。ドストエフスキーはアンナとの結婚後もスースロワと文通を続けていました。そのくせ、てんかん発作とたいして変わらぬ嫉妬の発作を爆発させることがありました。新婚当初、モスクワにいるドストエフスキーの妹夫婦の家でアンナはカルタ遊びに興じたことがありました。隣の席にはサーシャ・イワノフという機知に富んだ愉快な青年が座っていて、アンナは「彼とおしゃべりをしたり笑ったりし」ました。ところが、これをみてドストエフスキーはだんだん不機嫌になっていきます。帰り道では一言も喋ろうとしませんでした。そして、ホテルの一室に戻ると、形相を変え、アンナが「思いやりのないコケットで……夫を苦しめるためにだけ男とたわむれていた」と吠え始めたのです。
再婚後のドストエフスキーの行動をみると、なぜ、ドストエフスキーが一回目の結婚生活に失敗し、その後も、スースロワやアンナ・コルヴィン・クリューコフスカヤたちとの恋が成就しなかったのか、その理由の一端が窺えます。よほど心の広い女性でもこんなことには耐えきれないでしょう。
ところが、この幼妻の心のうちには不思議な信念が芽生えていました。
「……わたしはフョードル・ミハイロヴィッチを限りなく愛していましたが、その愛は、同年輩の男女にみられるような肉体的なものではなくて、純粋に精神的な、観念的なものでした。むしろ、才能のある、高い精神性を持った人物に対する崇拝、賛美といったほうがいいかもしれません。これほど辛い思いをし、一度も喜びと幸福な目にあったことのない人、全生活を捧げつくしてきた身内のものから当然やさしさと思いやりで報われるべきところを打ち捨てられたままのこの人にたいして、わたしの心は憐れみでいっぱいでした。生涯の道づれになり、苦労を分かちあい、生活の負担を軽くし、幸せにしてあげたいという夢想がわたしをとらえてはなしませんでした。フョードル・ミハイロヴィッチは、わたしの神、わたしの偶像となり、わたしは生涯彼に仕えるつもりでした」
これは、海外旅行にでかける前の心境をアンナが述懐したものですが「ドストエフスキー教」とでも呼ぶべきこのアンナの母性的信仰はその後も揺らぐことはありませんでした。賭博についても、夫の精神安定のための必要悪とみなし「気晴らし」に行ってくるようすすめることもあったぐらいでした。
二人は、ヴィースバーデンで「嵐のような」5週間を過ごした後、ジュネーブに落ち着き、その後、イタリアを回って、1871年、再び、ドレスデンに舞い戻ってきます。長年の外国生活で自分の才能が枯渇し、破滅に瀕していると気落ちするドストエフスキーに、アンナは「運試し」を勧めます。妻のあきらめのまじった勧めによって夫は喜び勇んでヴィースバーデンにでかけます。しかし、もちろん、賭博は惨めな結果に終わります。ドレスデンにいるアンナのもとに「お前の送ってくれた30ターレルを、そっくり負けたのだ」といつもながらの夫の手紙が届きます。「こんどこそこの妄想も永久に終わりをつげた。わたしは以前にもお前に当てて、永久に終わりをつげたと書いたが、今これを書きながら感じているような気持ちは、これまでかつて覚えたことがない。おお、今度こそわたしはあの悪夢に別れを告げた。もし今この瞬間、お前のことを案じる不安さえなかったら、わたしは神に祝福したいくらいだ。とんだ災難ではあったが、とにかく万事おさまったわけだからね……今度こそわたしの両の手を解かれた思いだ。わたしは賭博で両手を縛られていたが、これからは仕事のことを考えて、これまでのように、夜っぴいてばくちのことなど空想しない」と、あいかわらずの、いいわけ混じりの虚しい誓いが書き連ねてありました。もちろん、アンナは真に受けなかったでしょう。
ところが、奇跡が起きます。
本当に、ドストエフスキーは賭博から足を洗ったのです。
これ以降、アンナは孫悟空を操るお釈迦様のように夫を「操る」ようになります。ドストエフスキーのほうも、そこらあたりに数多転がっている亭主族のように、喜んで妻に操られて喜ぶようになったようです。平安に満ちた家庭生活にどっぷり浸かるようになったのです。後年、アンナに書き送った手紙の中でドストエフスキーは彼女が「いかなる女性にも勝り」「女王となって全王国を与えられて」も見事に取り仕切るだろうと大まじめに褒めちぎっています。
話が前後しますが、ヴィースバーデンでの「嵐のような」5週間のあとバーゼルを経由してジュネーブに着いたドストエフスキーたちはユーゴー、ミル、ゲルツェン、バク-ニンたちが出席している「国際平和会議」に「ぶつかり」ました。「平和と自由」という旗印の下に開かれた国際会議で、自らが属する国の政体に反対しているということが唯一の参加資格という不思議な会でした。ドストエフスキーは第2回会議に出席し、その印象をマイコフや姪のソーニャに罵詈雑言とともに書き送っています。「本の中でなく現実にはじめてお目にかかった社会主義者、革命家の五千の聴衆を前にした演壇上のほらふき、これは筆紙の及ぶところではありません!……滑稽さ、薄弱さ、無意味さ、不一致、自己撞着―――これらは想像もできないくらいです!しかも、こうしたやくざな連中が、不幸な労働者たちを動揺させているのです!これは寂しいことです。彼らは手始めとして、地上の平和を獲得するためには、キリスト教を撲滅しなければならぬ、大きな国家をなくして、小さな国を作らなくてはならぬ、いっさいの資本を没収して、すべてを命令によって共有のものにすべし、等々を主張しています。これらはみんななんの証明もなく、20年も前から棒暗記したものが、そのまま残っているのです。が、おもなものは火と剣です。そして、すべてが滅ぼされたあとで、彼らの意見によれば、その時はじめて平和が訪れるというわけです。しかし、もうたくさんです」
「白痴」、娘の死、「悪霊」
ジュネーブに着くと、前借りするたびごとにマイコフに空約束していた小説をこんどこそ書かざるをえなくなります。「完全に美しい人間」ムイシュキン公爵を主人公とした異様な恋愛小説「白痴」の執筆がこうして開始されます。この頃、ドストエフスキーには望郷の念が押さえ切れないほど高まっていました。それを反映してか、小説は、てんかん治療を終えてスイスから戻ってくるムイシュキン公爵の描写から始まります。
その間に、最初の娘、ソーニャが生まれました。赤ん坊のうぶ声が聞こえると、我を忘れ、ドストエフスキーは掛け金のかかった産室のドアに体当たりをぶちかませました。助産婦は「ながい間この仕事をしてきたが、これほど興奮してとりみだした父親をみたことがない」と呆れかえりました。しかし、ソーニャは生後3か月に肺炎で死んでしまいます。マイコフ宛にドストエフスキーは悲痛な手紙を書き残しています。「あと2時間で死んでしまうとは夢にも知りませんでしたので、新聞を読みにでかけようとすると、彼女は小さな目でわたしを追い、じっとわたしを見つめたのです。今でもそれが目に焼きついて、いっそうありありと見えてきます。たとえ次の子が生まれるとしても、かわいがることができるどうか……わたしはソーニャがほしい。あの子はもういない、自分はあの子にめぐり会うことができない。このことが納得できないのです」
ソーニャの思い出の残るジュネーブは耐え難く、二人は同じジュネーブ湖畔の街ヴヴェーに移り住みます。その後、ミラノを通ってフィレンツェに腰を落ち着け、ここで「白痴」を完成させました。そして、ヴェニス、プラハに寄って、再び、ドレスデンに戻ってきます。ドレスデン滞在中、次女のリューボチカが誕生します。幸い、この子は丈夫でした。ようやく、彼らの家庭は幸せに輝くようになります。妻に裏切られた男を喜劇風に描いた小説「永遠の夫」はそのような生活の中で執筆されました。
ちょうど、この頃、モスクワ大学農学部にかよっているアンナの弟スニートキンがドレスデンにやってきました。スニートキンは、農学部で地下革命運動の蠢動があること、その運動にかかわっている友人の一人にイワノフという学生がいることをドストエフスキーに話してきかせました。ところが、その数ヶ月後、そのイワノフがモスクワ大学の裏庭の池に死体となって浮いているのが発見されます。過激な無政府主義者バクーニンとも関係のある学生ネチャーエフが革命組織を大学に結成、その組織の一員であったイワノフに「密告と裏切り」の恐れありと嫌疑をかけ、他の学生をそそのかせ、殺させたのでした。ドストエフスキーはこの事件をヒントに、革命運動を痛烈に皮肉った小説「悪霊」を執筆します。ドストエフスキー49歳のときのことです。
帰郷
1871年夏、ようやく、夫婦はペテルブルグに戻ります。そして、すぐに長男が生まれました。相変わらず、借金だらけでしたが、アンナの才覚で、ドストエフスキーはしだいに経済的困窮から抜けだします。
ちょうど、ネチャーエフの裁判が始まったこともあって「悪霊」は大変な評判を呼びました。アンナはこの「悪霊」の自費出版をもくろみ、うまく成功をおさめます。刷るそばから「悪霊」は売れていきました。これ以後、アンナは同じ方法で夫の作品を自費出版し、安定した収入の確保に成功します。
一方、ドストエフスキーはメチチェルスキー公爵という自称政治評論家が発行している雑誌「市民」の編集長の職につきます。給料は月250ルーブルで、執筆原稿にはさらに原稿料が支払われることになっていました。編集長就任後、彼はこの雑誌に社会政治評論を主体とするエッセイ「作家の日記」の連載を開始します。しかし、辛抱を強いられる編集長の職にしだいにドストエフスキーは耐えられなくなります。その上、メチュチェルスキー公爵とも意見が合わなくなり、結局、編集長の職を辞します。しかし、「作家の日記」は好評でしたので、アンナはこのエッセイを独立雑誌の形で定期的に発行することにしました。アンナに尻を叩かれながらドストエフスキーは奇跡的な勤勉さで規則正しく「作家の日記」を書き継ぎました。執筆内容が対トルコ戦争のさなかの愛国的雰囲気にマッチしたこともあって、この私的定期刊行物は部数を増やしていきました。売上代金は印刷代を除いてすべて手元に残り、小説同様、「作家の日記」も相当の利益をもたらしました。こうして、彼の経済的基盤は徐々に安定していきました。これも、ネクラーソフが驚いたように、ドストエフスキーがアンナの「いいなり」になったおかげでした。
末の息子アレクセイ(アリョーシャ)が3歳の時けいれん重積で亡くなるという不幸はありましたが、ロシア帰還後は、それ以前のことが嘘のように、平穏無事に時間が流れていきました。
そうした中、彼の名声はしだいに高まっていきました。シベリア流刑の苦難を乗り越え、名作「罪と罰」「白痴」「悪霊」を執筆し、今また、「作家の日記」に時事的意見を忌憚なく述べるかれは「人生の教師」とみなされるようになります。崇拝者たちが次から次へと家を訪れてきました。悩みを抱えてドストエフスキーの助言を求める手紙も数多く舞い込みました。そして、ドストエフスキーはそれらに一つ一つ懇切丁寧に返答の手紙を書き送りました。さらに、慈善事業の一環として自作を朗読するよう依頼されることもよくありました。そうした中、皇太子(のちの皇帝アレキサンドル三世)の家庭教師ポベドノスツェフ、皇帝の甥、コンスタンチーノヴィッチ大公などの要人たちとも知り合いになりました。しかし、「貧しき人々」で鮮烈なデビューをした新進作家時代と異なり、これらの栄光にのぼせあがることもありませんでした。
「カラマーゾフの兄弟」と最後の栄光
一方、この頃、哲学者ソロヴィヨーフと知り合いになっています。ソロヴィヨーフはアンナと同世代の哲学者で、無神論を容認する西欧諸国を糾弾、ロシアの歴史的使命は宗教的使命だと主張していました。ドストエフスキーはこの哲学者の連続講義を聴講し、さらには、かれと連れだってオプチナ・プスティン修道院を訪れるほどに親密な仲になります。オプチナ・プスティン修道院は歴代、有徳の長老を輩出して国民の尊崇を集め、多くの信者があたかも巡礼のように全国から訪れてきていました。その巡礼の中にはゴーゴリやトルストイの姿もありました。当時は、アンヴローシ神父が民衆の崇拝を一身に集めていました。ドストエフスキーとソロヴィヨーフもこの神父を訪ね、うまい具合にこの伝説的長老と語り合うことができました。この「巡礼」後、ドストエフスキーは新しい小説にとりかかります。父親殺しを軸として展開されるその壮大な宗教的叙事詩「カラマーゾフの兄弟」にはアンヴローシ神父がゾシマ長老として登場します。
朗読はロシア文学において重要な位置を占めています。そして、意外かもしれませんが、ドストエフスキーは朗読の名人でした。朗読のみならず、人に語って聞かせることが得意で、かれの演説は人々を魅了しました。この得意技が彼の晩年をいちだんと輝かせることになります。死の前年の1880年6月8日、ドストエフスキーはロシア文学愛好者協会の記念大会でプーシキンについての演説を行って聴衆を熱狂させたのです。「真のロシア人なることは、ヨーロッパの矛盾に最終的な和解をもたらし、全人間的なおのれの魂の中に、ヨ-ロッパの悩みの捌け口をさし示し、同胞的な愛をもってすべての同胞をその中に収め入れ、すべての民族を、キリストの福音に示された掟によって完全に同胞として結合さす偉大な一般調和の言葉を発することを意味するのである!」とドストエフスキーは説きました。聴衆の熱狂ぶりは後々まで語り継がれるほど激烈なものでした。聴衆が興奮して会場内は収拾がつかない混乱状態に陥り、気まずい仲にあったツルゲーネフでさえ感動してドストエフスキーに駆け寄ってきたほどでした。かれはこの発言が「有頂天な、誇張した、幻想的なものに聞こえるかもしれない」ことを自覚していました。しかし、演説内容が印刷され、それを読んだグラドーフスキーたちにおめでたい楽観主義と揶揄されると、頭にきて、猛然と反論します。かれは、正義を掲げて無数の人間をギロチン台に追いやった「先進的」ヨーロッパ文明に危惧を表明します。「自由、平等、同胞愛、と書いてみたところでなんの意味があろう?……この三つの言葉の上に、さらに第四の、しからんずんば死(という言葉)をつけ加えなければならない……同胞的団結という「公民的制度」を獲得するために、同胞の首をちょん切りにでかけるのだ」と吐きすてました。そして、「総決算が行われる」にちがいないと予言します。「政治上の諸問題は、必ずや大がかりの、決定的な、総勘定的性質を帯びた、政治的戦争を招来しなければやまない。このあらゆるものを巻き込んでしまう戦争は、現世紀、おそらくはこの十年間に勃発するに相違ない」とまで警告したのです。第一次世界大戦は、この演説が行われた24年後に「勃発」します。また、ヒトラー、スターリン、毛沢東、クメール・ルージュなどの所業にみられるごとく、20世紀が「正義」の名の下に「同胞の首をちょん切る」大量殺戮の世紀であったことはご存じの通りです。
しかし、当時も、そして、それからのちも「進歩的」な人間がドストエフスキーをどうしようもなく保守的で反動的な人間と見下す時代が続きました。たとえば、この講演から半世紀近くたった1928年、ジークムント・フロイトは次のように書いています(フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」)。
「ドストエフスキーが道徳的な闘いにおいて最終的に到達した段階もまた、名誉のあるものではない。個人の欲動を充足させたいという願望と、人間社会のさまざまな要求を和解させようとして、激しい苦闘を経験したのだが、結局のところは後戻りして、世俗的な権威と宗教的な権威に屈服したにすぎないのである。 ツァーとキリスト教の神に畏敬の念を捧げ、ロシアの狭量なナショナリズムに屈するのであれば、ドストエフスキーほどの才能は不要だし、彼ほどの苦闘も不要なのである。 これはこの偉大な人格の欠点なのである。ドストエフスキーは人類の教師や解放者になり損ねて、人類の牢獄の看守になり下がったのである。未来の人類の文化が、 ドストエフスキーに感謝すべきものは何もないのである」
死
19世紀のロシアにおいて悲劇的結末によって生涯を閉じた文学者は少なくありません。
些細な口論から決闘に至り、雷雨の中、銃弾を受けて26歳の生涯を閉じたレールモントフ、妻の浮気に端を発した決闘によって37歳の若さで死んだプーシキン、鬱病の中、断食を強いられ、42歳で餓死したゴーゴリ、家出同然にでた巡礼の旅の途上、名もなき小さな停車場で82歳の生涯を閉じたトルストイ。
しかし、波乱に満ちた生涯と裏腹に、ドストエフスキーは安らかに「畳の上」で死を迎えました。
死因は生涯彼を苦しめたてんかんとは無関係で、肺出血でした。
ペテルスブルグに戻ってきて数年たった頃、ドストエフスキーは気管支炎と診断され、毎夏、ドイツのエムス鉱泉で療養するようになります。エムスからアンナに宛てた手紙の中には「痙攣性の咳」のことがしばしばでてきます。しかし、その後、肺気腫の合併を主治医から告げられます。
長年にわたって気管支炎を繰り返していると、末梢細気管支壁と肺胞壁が破壊され、空気の通り道と肺胞が異常に拡大することがあります。これが肺気腫で、うまく呼吸ができなくなります。
アンナの回想録には、ドストエフスキーが相当数のたばこを吸っていたことが記されています。また、治療でようやく咳が治まってきたので安心してタバコを吸ったと、エムスからのアンナへの手紙で書いています。過度の喫煙が原因で肺気腫にまで悪化したのかもしれません。ただし、当時のことですから、レントゲン写真で診断できたわけではありません。シベリアにおける重労働で珪肺に罹患していた可能性、肺ガンに冒されていた可能性もないとはいえません。いずれにしても、しばしば襲う呼吸困難から、かれは死期が近いと観念するようになります。
死の数日前、ドストエフスキーは喀血します。病変が血管に及び、破れた血管から血液が流れ出たのでしょう。喀血後、いったんは小康状態となり、主治医も肺の血管を「血液の糊」が蔽ったので大丈夫と請けあいます。しかし、結局、喀血が再発、呼吸状態が悪化します。
1881年1月28日、死の当日の朝、目覚めたドストエフスキーは妻のアンナに「今日は死ぬだろうな」と力なく呟きました。そして、聖書占いをしました(江川卓 「ドストエフスキー」)。聖書を適当にめくり、開かれたページの最初に現れたイエスの言葉で運勢を占うのです。力ない手で開かれたページはマタイ福音書3章14節から始まっていました。イエスがヨハネの洗礼をうける場面です。
「14ヨハネ、イエスを止めて言いけるは、われこそ汝より洗礼を受くべきなるに、なんぞ汝の我に来たれるや?15されどイエス、答えて彼に言う、いまはとどむるなかれ、けだしわれら……」
ここまで聞いて、ドストエフスキーはアンナが聖書を読むのを制し、つぶやきました。
「いまはとどむるなかれ……つまり、わたしは死ぬということだ」
このとき使われた聖書はシベリア流刑途上ヴィージナ夫人から贈られ、オムスク監獄の枕元でドストエフスキーとともに寝起きをした1823年版ロシア語訳聖書でした。自分のほうこそイエスの洗礼を受けるべきで、イエスに洗礼などとてもできないと逡巡するヨハネに、いまはともかくも洗礼を施して欲しいとイエスが頼んでいる場面です。しかし、ロシア語訳聖書のこの箇所は誤訳だったと江川卓氏は指摘しています。イエスの言葉「いまはとどむるなかれ」は、正しくは、「まあ、いまはそんなことをいわずに」とでも訳すべきだったというのです。実際、のちのロシア語訳ではそのように訂正されたそうです*。しかし、このときのドストエフスキーはそんなことを知るよしもありません。そして、午後8時過ぎ、呼吸状態が悪化して意識を失い、誤訳されたイエスの言葉に黙って従うかのように、永眠しました。59歳でした。
* ただし、日本語の聖書でも、たとえば、フランシスコ会聖書研究所訳註版「新約聖書」などでは「今は、止めないで下さい」となっています。しかし、英語では“Allow it now”ですから、これはたしかに「いまはとどむるなかれ」ではなく「いまだけは許されよ」ということになるでしょう。
ドストエフスキーのてんかん
ドストエフスキーの生涯を見渡したとき、何よりも驚かされるのは、その恐るべき生命力、精神力です。ペトラシェーフスキー事件では、処刑劇と監獄生活によって、多くの仲間が発狂したり廃人同然になったりしています。しかし、ドストエフスキーはそれらを乗り越え、出獄後、旺盛な執筆活動を開始します。しかも、その執筆活動は、借金の返済に追われ、ルーレットに狂い、錯綜する女性関係をくぐり抜ける中でおこなわれました。さらに、てんかん発作によってその生活は幾度となく寸断されました。にもかかわらず、膨大な量の傑作小説群、評論、日記、手紙を書き残したのです。ドストエフスキー自身もこのねばり強い「猫のような生活力」を誇っていたことは以前述べたとおりです。
発症
そのドストエフスキーのてんかん発作です。
ドストエフスキーのてんかん発症時期に関してはさまざまな説がありますが、目撃者によってはっきり記載されているのは、1846年、ドストエフスキー25歳の年のようです。前年、ベリンスキーによって激賞された小説「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」に掲載され、小説家として彼の名前が一般にも知られるようになった頃です。
目撃者は「貧しい人々」出版のきっかけを作ってくれた友人のグリゴローヴィッチです。
「ある時連れだってトロイツキー通りを歩いていると、葬列に出くわした。ドストエフスキーはすぐにそれを避けようとしたが、数歩もいかぬうちに、持病による強い発作を起こした。発作があまりにひどかったので、とおりがかりの人の手を借り、最寄りの薬局へかれを運びこんだ。しかし、息を吹き返すのには手間取った。こうした発作のあとでは、かれは、いつもうちひしがれたようになって、それが二日か三日は続いた」(グリゴローヴィッチ 「文学的回想録」 The Dostoevsky Archive)。
グリゴローヴィッチは、この文章の直前に「根をつめた仕事と、閉じこもって座り続けていることが、かれの健康にきわめて悪く影響した。それは、まだ若い頃、学校時分に何度かおそわれた病気も悪化させた。めずらしく二人で散歩しているとき、何度か発作が起こった」(同上)とも書いています。グリゴローヴィッチはドストエフスキーと工兵学校の同窓ですから、この25歳の時の記載以前、工兵学校にいた17歳から22歳の間にすでにてんかん発作があったのかもしれません。
しかし、10代後半にドストエフスキーがてんかんを発症していたのかどうか、これ以上究明する手だてはありません。ですから、ドストエフスキーのてんかん発症年齢を正確に確定することはできません。ただ、ドストエフスキーが思春期から青年期にかけててんかん発作を経験していたことだけはたしかなようです。
さらには、7歳の時、最初のてんかん発作があったと書いている伝記作家もいるようですが、この「7歳発症説」の根拠はよくわかりません。
ドストエフスキーの幼少期については弟アンドレイによる思い出話が参考になります。しかし、幼年時代のドストエフスキーのてんかん発作を疑わせるエピソードについてアンドレイは何も語っていません。あえて隠そうとしたのではないかとも考えられますが、ドストエフスキーがてんかんに罹患していたことは思い出を語っている時点にはすでによく知られていた事実でした。今さら隠す必要もなかったでしょう。むしろ、質問者に少年時代のドストエフスキーのてんかん発作の有無を尋ねられたことでしょう。にもかかわらず、何も触れていないところをみると、やはり、ドストエフスキーが14歳で寄宿学校に入ってアンドレイと生活を共にしなくなった時点までは、明らかなてんかん発作は起こしていなかったと考えるのが順当でしょう。
ついでながら、ドストエフスキーが17歳で工兵学校に入学する際、兄のミハイルも一緒に入学するはずだったのですが、結核罹患を疑われて入学できませんでした。ロシアの将軍を輩出したような学校ですから、健康面のチェックも厳しかったのでしょう。当然、ドストエフスキーもてんかんをもっていると疑われたら入学できなかったはずです。
こうして考えていくと、やはり、ドストエフスキーのてんかん発症は工兵学校入学以降とみるべきでしょう。
ちなみに、工兵学校入学の翌年に起きた父親の「殺害事件」がてんかん発症の原因となったという「伝説」も根強く残っています。たしかに、父親の死によるショックがてんかん発作の誘因となることはあったかもしれません。しかし、それがてんかん発症の病因になることはありえません。ヒステリーなどの神経症とちがい、心因性の負荷が脳に繰り返し異常放電(てんかん発作)を引き起こす機能異常をもたらすことはないからです。ただし、父親の死が誘発したてんかん発作が初発発作だった可能性はあるかもしれません。
ドストエフスキーのてんかん発症年齢がはっきりしないのはドストエフスキー自身にも原因がありそうです。はっきりした「痙攣性」発作が何度もみられるようになるまで、かれは自身の「発作」をてんかん発作と認めようとはしなかったようです。しぶしぶながらもドストエフスキーが自分の病気をてんかんと認めたのはずいぶん後になってからです。第7シベリア旅団の軍医エルマコフ大佐はドストエフスキーが1850年(29歳の時)に「はじめて」てんかん発作を起こしたと書いていますが、これはドストエフスキーから聞いた病歴を基にした記載でしょう。ソフィア・コバレフスカヤも流刑が終わりに近づいた頃、最初のてんかん発作があったとドストエフスキー本人から聞いているようです。1865年12月には「そう、わたしは「倒れ病」にかかっている。これは、12年前、人生のうちでももっとも最悪の時期に、不幸にも背負うことになった病だ」とドストエフスキーは雑記帳に書き留めていて、これでも、てんかんの発症は1853年、オムスク監獄生活の3年目ということになります。さらに、オムスク軍病院の医師トロイキーもドストエフスキーがシベリアでてんかん発作を発症したと証言しています。いずれにしても、グリゴローヴィッチの記載年齢よりずっとのちの発症ということになってしまいます。
しかし、その30歳前半の時点でも、ドストエフスキーがてんかんの診断を受け入れていたかどうか、どうやら、怪しいようです。
ドストエフスキーのてんかんの診断が公式な記録に残っているのは36歳、最初の結婚直後です。激しい発作を何回も繰り返し、その時診察したエルマコフ大佐は「まぎれもないてんかん」と診断しました。それまでかかった「すべて」の医者は、単なる神経性の発作だから暮らし向きが変われば発作もおさまるだろうと請け合ってくれていたのに、どうしたことだ、てんかんと分かっていれば結婚などしなかったのに、とドストエフスキーは兄への手紙で愚痴っています。その後、てんかんが軽快することがなかったため無理もないですが、ドストエフスキーは、どの医者にも不信感を抱き、何人もの医者を渡り歩いています。心の安静を保つために、てんかんではないといってくれる医者を捜し求め、このときまでに、いろいろな医者にかかっていたのかもしれません。
発作症状
グリゴローヴィッチがドストエフスキーのてんかん発作を記載している25歳の年、もう1人の友人がドストエフスキーの発作を目撃しています。知人宅のパーティーで、突然、奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになった、というのです。そうした状態が数分続いた後、かれは虚ろな声で「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄りました。窓台に座ったドストエフスキーの顔はゆがみ、頭は一方に傾き、身体全体がふるえはじめました。知人がドストエフスキーを冷水でびしょ濡れになるまで冷やしましたが、きちんと意識を回復しないまま、ドストエフスキーは通りに駆けだしていきました。
同じ年、1846年にドストエフスキーは医師ヤノスキーの診察を受けています。
ヤノスキーは、1847年から1849年の3年の間にドストエフスキーの発作を3回目撃しています。
一回目は1847年7月、場所は聖イザーク通りです。ドストエフスキーは帽子もかぶらず、通りがかりの役人の腕を握りしめていました。コートとチョッキのボタンは外れたままで、アスコットタイも緩んでいました。「死にそうだ」と叫びながらドストエフスキーはヤノスキーの助けを求めました。脈拍が100を越える頻脈になっていました。やがて、投げ出すように頭を後屈させ、けいれん様の震えが始まりました。ヤノスキーはドストエフスキーを家に連れ帰り、瀉血を施しました。
翌年、こんどは睡眠中にけいれんを起こします。ベリンスキーの死で精神的に不安定になっていたドストエフスキーに頼まれ、ヤノスキーはドストエフスキーの隣の部屋で寝てあげました。すると、夜中の3時、イビキのような激しい呼吸音が隣室から聞こえてきました。みると、ドストエフスキーが仰向けに倒れ、目を見開き、口から泡を吹き、舌を突き出し、けいれんしていました。
さらに、翌年の初春の夜更け、発作が起こりそうだと助けを求め、ドストエフスキーがヤノフスキーのところにやってきました。
ヤノフスキーはドストエフスキーにはこのような「軽い発作」も数多くみられたと書き残しています。
ドストエフスキーがてんかん発作を繰り返し起こしていることは、もちろん、ヤノフスキーはわかっていたはずです。そして、おそらく、そのことをドストエフスキーに告げていたでしょう。しかし、ドストエフスキーはその診断に納得しなかったようです。当時、かれは自分の発作を「微風をともなう発作coups de sang par rafales」と呼んでいました。てんかん発作症状の一種、前兆auraはもともと微風を意味するラテン語ですから、かれのこの表現は、ある意味、正鵠を射ています。しかし、ヤノフスキーから借りたりした医学書を読みあさって、ある程度てんかんにかんする知識があったはずのドストエフスキーですが、当時、てんかんという言葉を一度も使っていないようです。ですから、20歳代半ばの時点では、てんかんと認識していなかった(もしくは、認識したくなかった)のでしょう。しかし、1857年、36歳の年にウランゲル男爵に宛てた手紙でドストエフスキーはヤノフスキーがドストエフスキーの病気が真性てんかんだと診断したと書いています。ですから、いずれかの時点で、ドストエフスキーはヤノフスキーの診断を受け入れるようになったのだと思われます。
シベリア流刑後のてんかん発作
秘密警察に逮捕されてペトロバーヴロフスカヤ要塞監獄に監禁され、その後シベリアの流刑地オムスクの監獄に収容されていたため、ヤノフスキーが書いている3年間の発作以降、しばらく、ドストエフスキーの発作についての情報は途切れます。ただ、オムスクの要塞監獄で何度も発作を起こしたことはたしかなようです。
吹雪に埋まったオムスクの街の救助に囚人たちがかり出された日のことをドストエフスキーと同じ獄舎にいたポーランド人政治犯トカルジェーフスキーが手記に書き残しています(米山正夫 「ドストエーフスキイ研究 生涯」河出書房新社)。「人力を越える苦しい昼間の労働でへとへとになって」帰ってきてから、突然、ドストエフスキーが「目の前が暗くなった、力が出ない」と訴えたあと、床に倒れ、前後不覚に陥ったというのです。ただし、その後、ドストエフスキーは肺炎で監獄付属病院に入れられたということですから、このエピソードがてんかん発作によるものか、肺炎にともなう呼吸障害や発熱に起因する意識障害なのかはわかりません。
てんかん発作の詳細な記録が再び現れるのは約10年後の1857年、マリア・ドミートリエヴナと最初の結婚をした年です。先ほども申しましたように、結婚後ドストエフスキーはひどい発作を繰り返し、第7シベリア旅団の軍医エルマコフ大佐に診てもらっています。この軍医による12月16日付の公式記録には次のように記されており、これが、ドストエフスキーのてんかんを記載した最初の公式文書です。
「35歳前後の中肉中背男性。1850年(29歳)にはじめててんかん発作におそわれた。発作は、突然の叫声、意識消失、四肢と顔面の痙攣からなり、唇から泡を吹く。いびき様の呼吸がみられ、微弱化した頻脈をみとめる。発作持続は15分で、その後、ぐったりする。1853(32歳)年に再び発作がみられ、その後は月末になるとみられるようになった」
6年後、友人のストラーホフもドストエフスキーの発作を目撃しています。
「一瞬、言葉を探し求め、何かを要求するかのように彼は動きを止めた。わたしは彼に注目した。何かとてつもないことを喋りはじめるのではないかと期待したのだが、半ば開いた口から飛び出てきたのは奇妙な雑音めいた音声だった。彼は意識を失って部屋の真ん中で倒れた……身体を硬直させ、けいれんし、口から泡を吹いた」
その五年後、妻のマリアと兄のミハイルが死んで、雑誌「時代」の編集を引き継いだ頃、シルという人物がドストエフスキーのアパートを訪ねていった時に発作を目撃しています。「彼は何かについて深い瞑想にふけっているようにみえた。顔が蒼く、私の顔を見ているにもかかわらず、私のことなど認識していないようだった。何か不思議な目つきをしていた……10分もたたないうちにてんかん発作が始まった。顔が痛みに歪み、座っていた肘掛け椅子に頭を打ちつけた。口からは泡が吹き出て、とてつもないいびき音が響き渡り、私は恐怖におののいた……アパートの女主人を呼びにやると、白い布を手にしてやってきて、彼の顔の上にその布をかぶせた。どうやら、彼女は彼の発作には慣れっこになっていたらしい。すぐに自分の部屋に戻っていってしまった。私ひとりがとり残された……30分ほどして、ドアのベルが鳴り、当時まだ学生だった彼の甥が入ってきた。彼は叔父の顔から白い布をとりはずした。ドストエフスキーは静かに呼吸をしていて、やがて、穏やかな深い眠りに入った」(Shillle AG Frequent epileptic fits ―― a Terrible experience. The Dostoevsky Archives(1997))
最初の結婚から10年後、アンナ・グリゴーリエヴナと2度目の結婚をした直後、またもや、発作が頻発している様子が記録に残されています。
「……フョードル・ミハイロヴィッチは殊のほか元気で、姉とたのしそうに何か話していた。すると突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから身体を浮かすようにして私の方にもたれかけてきた。すっかり変わってしまったその顔つきをみて、私はぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとは思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた……私は彼の肩を抱きかかえ、力を込めて長椅子に掛けさせた。だが無感覚になった体は長椅子からずりおちて、私の力ではどうしようもなかった……少しずつ、けいれんがおさまると、彼は意識をとりもどしはじめた。だが、初めのうち、自分がどこにいるのかわからず、口もきけなかった。たえず何か言おうとしたが、ろれつがまわらず、何を言っているのか聞き取れなかった。(アンナ・ドストエフスカヤ 「回想のドストエフスキー」)」
このときは、数時間後に再び発作が起きています。
のちに夫の発作についてアンナは次のよう回想しています。
「恐ろしい、人間のもとは思えない叫び声を発しました。普通の人間にはとても発することのできない耳障りな音声でした。この叫び声が聞こえると私は彼の部屋まで駆けて行って、部屋の真ん中に突っ立っている彼を支えました。痙攣で顔は歪み、身体全体が震えていました。彼を後ろから抱きかかえ、彼と一緒になって私も床に横たわりました……
通常、この惨事は夜に起きました……ですから、発作の時、転げ落ちることがないよう、かれは幅広い低いソファで寝るようにしていました。
意識が戻っても何が起きたのか彼は分かっていませんでした。『発作があったのか?』と彼は尋ね『そうよ、あなた』と私は答えるのでした……発作の後、彼は眠りましたが、ちょっとした物音、たとえばテーブルから紙が落ちる音程度でも目を覚ますことがありました。すると、かれは飛び起き、意味不明の言葉を発するのでした……
愛する人の顔がひきつけているのをみるのはつらいことでした。顔は蒼く、動脈に血液がつまり、苦悶の表情をしているのに、助けてあげることができないのです。彼のそばにいられる幸せの代償として、この苦しみがあったのです(28 January 1916 The Stock Exchange News)」
ペテルブルグに腰を落ち着け執筆活動を本格的に再開した40歳から死の前年の58歳までドストエフスキーは自身の発作のメモを8年間の中断期間を挟んで雑記帳に書き残しています(癲癇発作の記録(1961-1980)小沼文彦訳 ドストエフスキー未公刊ノート)。しかし、最初の数年は「4月1日 強、8月1日 弱、11月7日 中」といった簡単なメモ書きしか残っていません。強、中、弱という発作の表現が発作の長さを示すのか、強度を示すのかもわかりません。8年の空白期間を経て1873年からメモ書きが再開され、「白痴」を発表した1874年(53歳)頃から発作に関連するさまざまな記載がなされるようになります。しかし、家族、友人、知人による発作の記述からわかるように、発作の最中、ドストエフスキーは、たいてい、意識を失っていますから、当然、発作そのものについて本人はほとんど何も書き残していません。発作ではなく、発作後の症状が主体です。発作前の記述として、1975年4月8日のメモに「夕方から、いや昨日も強い予感があった」と発作前の記述がありますが、これは、あとで述べる発作前駆症状かもしれません。さらに、同日の「小説をせめて二行なりとも書こうと思って、机に座ろうとし……部屋の中央を歩きながら、からだがふわりと浮き上がったのを記憶している。40分ほど倒れていた。気がついてみると、タバコを巻きかけたまま座っていた。だが巻いてはいなかった。どうしてそうなったのかは覚えていないが、手にはペンを握っていた。そしてそのペンでタバコケースを引き裂いていた。からだに刺してしまうこともありえたわけだ」という記述が続きます。この「からだがふわりと浮き上がった」というのがどうやら発作の始まりを示しているようですが、どんな発作なのかよくわかりません。あとで問題となる恍惚前兆の記載はまったくみられません。
「癲癇発作の記録(1861-80年)」 小沼文彦訳 未公開ノート
西暦(年齢) | 記載されている年間発作回数 | 出来事 |
1861年(40歳) | 3 | 農奴解放令公布。「虐げられし人々」執筆 |
1862年(41歳) | 2 | 「死の家の記録」出版、欧州旅行 |
1864年(43歳) | 7 | 雑誌「世紀」創刊。妻マリア、兄ミハイル死亡。 |
1865年(44歳) | 3 | 雑誌「世紀」廃刊。多額の借金を背負う、「罪と罰」執筆開始。 |
1873年(52歳) | 5 | 「悪霊」「白痴」出版。雑誌「市民」の編集に忙殺される。 |
1874年(53歳) | 8 | 雑誌「市民」編集を辞退。ドイツの温泉エムスで療養 |
1875年(54歳) | 7 | 「未成年」執筆開始。「作家の日記」執筆再開。 |
1876年(55歳) | 10 | 児童虐待に関する論文執筆、温泉エムスで療養 |
1877年(56歳) | 4 | 「作家の日記」執筆に集中。対トルコ戦争勃発。ロシア科学アカデミーのメンバーに選出。 |
1978年(57歳) | 1 | 息子のアレキセイ、けいれん重積で死亡。オプチナ・プスティン修道院へ巡礼。皇太子を訪問。 |
1879年(58歳) | 2 | アレキサンダー二世暗殺未遂事件。「カラマーゾフの兄弟」執筆開始。25年にわたった秘密警察による監視が中止となる。ロンドンで開かれた国際文学会議の名誉メンバーに選出。肺気腫と診断。 |
1880年(59歳) | 5 | さまざまな集会で自作朗読。ロシア文学愛好者協会記念大会でプーシキンについて演説、大成功を収める。「カラマーゾフの兄弟」出版。 |
発作頻度、発作時刻
その後も、肺出血で死亡する直前までドストエフスキーは少なくとも35年間、途切れることなく、てんかん発作を起こしていたようです。この間、「虐げられし人々」を執筆していた1861年には、けいれん重積とみまがう長い痙攣に襲われ、「悪霊」を執筆していた50歳前後には相当頻繁に発作がみられていたとされています。アンナによると「発作と発作の間は長くても4か月で、ときには、毎週のように起きました。ひどい時には週に2回起きることもあり、数時間の間に2回続けて起きることさえありました」とのことです(ただし、先程のドストエフスキーの雑記帳の1873年のところに「五ヶ月半の発作中断後」に発作が起きた、という記載があります。しかし、ヤノフスキーがいっている「軽い発作」はドストエフスキーが無視したり、逆に、重積発作のようなひどい発作のときには書き留められなかったりした可能性がありますから、発作と発作の間は長くても4か月というアンナの証言の方が正しいのかも知れません。また、雑記帳では発作の回数が1861年3回、1862年2回と記載されているだけなのに、1864年に入ると突然7回に増え、1865年は3回に減っています。そして、その翌年は五回に増えています。ここまでは日にちと、発作の強、中、弱だけの簡単なメモです。もしかしたら、発作がすべて記載されていないのかもしれません。しかし、1874年からは発作後の症状が書かれるようになり、発作が1年に8回あったと記載がなされています。その後も、年に10回前後の記載もあり、このあたりが50歳以降のドストエフスキーの発作の頻度だったのかもしれません)。
寝ているときよりも起きているときのほうが他人に目撃されやすいので、記録に残っているドストエフスキーの発作症状はほとんどが覚醒時のものです。しかし、実際には睡眠時の発作のほうが圧倒的に多かったようです。このことはアンナも書いていますし、ドストエフスキー本人も1869年9月14日の日記に「ほとんどすべての発作はベッドに横たわっているときに起きる。睡眠の前半部分で、だいたい朝4時前後だ」と書いています。
アンリ・ガストーは5年間に26回起きたドストエフスキーの発作を検討しています(ただ、何を根拠に検討したのかはよくわかりません)。それによれば、26回中25回の発作は夜に起きていたとのことです。この25回の夜間発作のうち23回は寝入ってから30分から4時間たった睡眠中に起き、2回は、睡眠途中に目を覚まして発作が起きているようです。ただし、睡眠中の発作といっても、ドストエフスキーは夜中遅くまで仕事をして、寝入るのは夜明けの4時から5時ということがよくありましたから、本人が書いているように、発作自体は早朝に起きていたことになるのでしょう。
発作後症状
てんかん発作は発作後もドストエフスキーを苦しめました。
例の雑記帳に発作後症状がいろいろ書き留められています。
まず、頭痛、頭重感です。1874年12月29日(54歳)の時は「朝、八時、ベッドの中で発作、きわめて強い方。何よりもひどく頭をやられた。血が額を押しつぶす感じで、それに伴って頭頂部がずきんずきん痛む」と書き留めています。この症状を「頭部の充血」と他の発作に際して書いています。頭が充血するかどうかはともかく、頭痛、頭重感はてんかん発作後によくみられる症状です。この「頭部の充血」に加え、「頭はぼんやり、気分は落ち込み、地獄の責め苦と幻想の世界。ひどく苛立たしかった」と訴えていて、これもてんかん発作後にみられる知的機能低下および精神症状と考えられます。てんかん発作でエネルギーを使い果たした脳の機能低下、機能異常によってもたらされると考えられる症状です。充分意識が戻ってからも、頭が働かず、何日もぼんやり過ごすことがあったようです。グリゴローヴィッチもいっているように「発作のあとでは、いつもうちひしがれたようになって」、そういう状態は「いつも二日か三日は続」き、まともな状態に戻るのに一週間ぐらいかかることもあったようです。これは、発作後のうつ症状かもしれません。雑記帳にも「病的な状態が消えるのがたいへん困難で、ほとんど一週間も続いた」と記しています。アンナも結婚式直後の発作のとき「発作の後でいつも続く押しつぶされるような憂愁が、その時は一週間にもわたったのである」とのちに振り返っています。そして「『自分に一番親しい人を亡くしたような、誰かを埋葬したような気分だ』これはかれがその症状を説明するのに用いた言葉である」と補足しています。ひどいときには発作後1カ月ぐらい原稿が一行も書けないときもあったようです。そのために、雑誌編集者に原稿の遅れを弁解しなければなりませんでした。
さらに、喉の渇き、痛み、軽度の出血も雑記帳に繰り返し書かれていますが、発作の際、相当な叫び声を挙げていたようですから、そのせいかもしれません。四肢の痛みも訴えていますが、四肢が強直した際、筋肉や関節に相当な負荷がかかった名残でしょう。「足の麻痺」を自覚することもあったようですが、これは、てんかん発作で脳のエネルギーを使い果たしたことによる不全麻痺(Todd麻痺)かもしれません。
発作が終わると、眠ってしまうことが多かったようですが、睡眠に至らず、アンナも述べているように中途半端に意識が戻ってしまい、ときには、発作後自動症と呼ばれるおかしな動作を繰り返すこともありました。雑記帳にも、発作がおさまったのち、知らないうちに、たばこの葉を紙で丸めて紙巻きたばこを作っていたことがあると書いています。25歳の時発作が起きた際、人を振り切って駈けだしたというのも、いわゆる遁走発作だったのかもしれませんが、発作後自動症だった可能性もあります。
記憶減退も彼を苦しめました。
てんかん発作がなかった頃は、見たもの、聞いたもの、読んだものを、すべて、どんな些細なことでも、詳細に思い出すことができたのに、てんかん発作が起きるようになってからは、ありとあらゆることを忘れ、よく見知っているはずの人のことさえ忘れてしまうようになった、とかれは愚痴っています。
ロシアの天才ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルは演奏旅行で訪れた街で紹介された人物の名前をすべて覚えたそうです。街の名前を聞くとそうした名前が「数珠つなぎになって思いだされ、息苦しくなってしまう」とあるドキュメンタリー番組で語っています。ドストエフスキーもリヒテル同様、そんな異様な記憶力を若い頃はもっていたのかもしれません。しかし、その抜群の記憶力も、てんかん発作を繰り返すうちに減退していったようです。発作頻度が高かった「悪霊」執筆時はとくにこれがひどく、自分が作り出した登場人物の名前さえ忘れてしまって、最初から読み直さなければならないほどでした。アンナとの婚約当時も「虐げられし人々」の登場人物のことをアンナが1人1人論評したのに対し、ドストエフスキーはその登場人物たちを「よく覚えていない」と答えています。「罪と罰」と「賭博者」を脱稿し終えた直後のことで、この2作に異常な集中をしたあとだったせいかもしれませんが、それにしても、数年前に書いた小説の人物のことを忘れてしまっているのは、やはり、ちょっと異常です。
てんかんとはなにか
ドストエフスキーのてんかんにかんする以下の議論を理解いただくために、少なくともてんかん、てんかん発作、てんかん分類については、ある程度、了解しておいていただいた方がいいので、ここで、簡単に述べておきます。
人間の脳には百億本以上の神経細胞が存在しています。そして、そのひとつひとつの神経細胞は無数の突起を延ばして他の神経細胞に情報を提供し、逆に、他の神経細胞から情報を受け取っています。この情報交換によって脳は機能を発揮しているのですが、この神経細胞間の情報交換は電気信号によっておこなわれます。このため、脳全体にはつねに微弱な電流が流れています。ところが、まれに、この電流が乱れてしまうことがあります。神経細胞がいっせいに興奮、異常電流が脳全体あるいは脳の一部で洪水のようにほとばしり始めるのです。
てんかん発作分類 (2017) 国際てんかん連盟分類委員会 | ||
焦点起始発作 | 全般起始発作 | |
焦点意識保持発作 | 焦点意識減損発作 | |
焦点運動起始発作 自動症発作 脱力発作 間代発作 てんかん性スパズム 運動亢進発作 ミオクロニー発作 強直発作 焦点非運動起始発作 自律神経発作 動作停止発作 認知発作 情動発作 感覚発作 | 全般運動発作 強直間代発作 間代発作 強直発作 ミオクロニー発作 ミオクロニー強直間代発作 ミオクロニー脱力発作 脱力発作 てんかん性スパズム 全般非運動発作(欠神発作) 定型欠神発作 非定型欠神発作 ミオクロニー欠神発作 眼瞼ミオクロニー | |
焦点起始両側強直間代発作 | ||
この爆発的な異常電流(異常放電あるいはてんかん発射といいます)が発生した部位はまともに働くことができませんから、その機能に歪みが生じます。たとえば、大脳の真ん中当たりに手足の運動をつかさどる皮質運動野がありますが、ここに異常電流が発生すると、運動機能に狂いが生じ、手足が突っ張ったり(強直)、ガクガクと震えたり(間代)します。異常放電によるこのような突発的症状をてんかん発作といいます。
この異常放電は脳の一部から始まって、そこにとどまることもあれば、いっぺんに脳全体に広がってしまうこともあります。異常放電が脳の一部から始まって起きるてんかん発作を焦点起始発作(昔は部分発作といっていました)、左右対称に脳全体に異常放電が広がって起きるようにみえるてんかん発作を全般起始発作(昔は全般発作といっていました)と国際的な取り決めで呼んでいます。
焦点起始発作において、異常放電が脳の一部にとどまっていれば、たいてい、意識を失うことはありません。たとえば、大脳の後ろの方の後頭葉にある視覚領で異常放電が生じると目が見えなくなったり、チラチラと変なものが見えたりといった視覚症状がてんかん発作症状としてあらわれます。この際、視覚に異常を覚えるのは、意識が失われていないからです。意識喪失を伴わないこうした焦点起始発作を焦点意識保持発作と呼びます(以前は単純部分発作といっていました)。ところが、後頭葉に発生した異常放電が神経細胞間を伝搬していって前方の側頭葉に達すると、記憶が飛んでしまい、意識もうすれてしまいます。そして、意識のないままに、手をくるくる回したり、口をぺちゃぺちゃさせたり、その場にそぐわない不思議な持続的な運動、自動症を繰り返すようになることもあります。意識を失っているのでこれを焦点意識減損発作と呼びます(以前は複雑部分発作といっていました)。
焦点発作の症状は異常放電が生ずる皮質が受け持っている機能によって異なりますが、大まかには、外からみて運動症状として現れる発作を焦点運動起始発作、運動症状としては現れない発作を焦点非運動起始発作と大きく二つに分けて考えます。
焦点運動起始発作としては手足が突っ張ったり(強直)、ガクガクしたり(間代)といったいわゆる痙攣で始まる発作がその典型例です。しかし、逆に、力が抜けたり(脱力発作)、ピクついたり(ミオクロニー発作)することもあります。また、動き自体は滑らかなのですが、その場にそぐわない、わけのわからない運動がみられることがあります。先程述べた自動症、それに,自転車をこいだり泳いだりしているようにみえる激しい両側性の過動運動発作がこれにあたります。
一方、焦点非運動起始発作は視覚発作のような感覚症状を主体とする症状で始まる発作が代表的なものです。しかし、異常放電が生じる場所によっては、視覚発作のような明確な感覚症状がみられないままに発作が始まることもあります。動悸がしたり(自律神経発作)、小さいお子さんですと不安になってお母さんのもとに駆け寄ったり(情動発作)、上手く考えがまとまらなかったり(認知発作)といった症状が現れるのです。こうした症状は視覚発作のようにはうまく言葉にできません。それどころか、てんかん発作そのものと感じられないことも少なくありません。しかし、こうした異常を感じた後、たいてい、痙攣発作や自動症など外からみてよく分かる運動発作が出現します。以前は、こうした形容しがたい焦点非運動起始発作を発作の襲来を知らせる予報症状ということで、前兆と呼んでいました。たしかに、発作の予知症状のようにもみえるのですが、実際には、前兆のときすでに脳内に異常電流が流れ始めているので、これもてんかん発作です。
全般発作には強直発作、間代発作、ミオクロニー発作などがありますが、焦点起始発作と異なり、発作はたいてい左右対称に起きます。さらに、発作の最中に脳波を記録できれば、異常放電は両側半球に広がって認められます。このため、全般発作と呼んでいるのですが、症状してはミオクロニー発作のように一瞬(0.5秒以下)ぴくつかせるものから、強直発作のような全身を硬直させるものまでいろいろなものがあります。全般発作のうちでも最大のものと考えられているのが、四肢体幹の強直発作で始まり、ついで、間代発作に移行する強直間代発作です。具体的には、異様な叫び声をあげ、目がつり上がり、表情が一変、顔が固まって、手足を伸展硬直します。そのうち、体全体を震わせるようになり、顔も手も足も体全体が飛び跳ねるようにガクンガクンと揺らす間代発作に徐々に移行します。てんかん発作の中で症状がもっとも激烈で、電気現象からみても、脳内に異常放電がめいっぱい広がったとき起きると考えられるてんかん発作です。事実、焦点起始発作を引き起こす異常放電も、脳内を伝搬し、焦点起始意識保持発作から焦点起始意識減損発作に変貌し、ついには脳全体に広がって強直間代発作へと進展することがあります。これを焦点起始両側強直間代発作といいます。このように、焦点起始発作で始まったてんかん発作は次々と顔つきを変えていきます。しかし、一人の患者さんにおける異常放電の広がりはたいてい一定なので、発作の変貌の仕方もだいたい決まっています。
てんかんというのは、以上述べたてんかん発作が繰り返しみられる病態をいいます。てんかんの原因はさまざまで、数え方にもよりますが、おそらく300以上の原因を数えることができるだろうといわれています。昔はこうした多種多様な原因で起きるてんかんをてんかん発作型で分けることが提唱されていました。
焦点起始発作(昔は部分発作といっていました)が主体のてんかんを部分てんかん、全般起始発作が主体のてんかんを全般てんかんと2つに大別したのです。そして、部分てんかんは脳腫瘍といった脳の一部の器質的異常によってもたらされ、一方、全般てんかんははっきりとした脳の異常に基づかない素因性(遺伝性)のものが多いと想定されました。たしかに、そういった面があることは否定できないのですが、しかし、すべてに当てはまるわけではありません。
とくに、問題なのは小児期発症のてんかんです。
焦点起始発作がありながら、脳の器質的異常はみられず、知的機能障害、運動障害を合併せず、むしろ素因性(遺伝性)と考えられる部分てんかんがかなりの確率で小児の部分てんかんにはみられることがわかってきたのです。その一方で、全般性ミオクロニー発作のような全般発作を主体としながら、知的機能障害を合併し、MRIなどの脳画像上も異常を認める小児全般てんかんがかなりあることも認識されるようになってきました。
そこで、全般てんかん、部分てんかんと2つに分けるだけではなく、特発性てんかん、症候性てんかんという2分法が加わりました。特発性てんかんというのは脳の器質性異常を背景とせず、知的機能障害、運動障害も合併しない、素因性、遺伝性と考えられるてんかんです。一方、症候性てんかんは遺伝、素因とは無関係で、脳の何らかの傷を基盤として発作が起こってくると推定されるてんかんのことをいいます。こうして、全般性てんかんと部分てんかんという2分法に加え、特発性てんかんと症候性てんかんという2分法を組み合わせ、四つのてんかん類型でてんかんを分類しようということになったのです。
この分類はてんかんを整理する上で便利でした。しかし、その後、いろいろな不都合が指摘されるようになりました。たとえば、全般起始発作と焦点起始発作が両方ともみられるてんかんは分類することができません。ところが、そうしたてんかんが結構あることがわかってきたのです。さらに、分子生物学の進歩によって、遺伝子レベルの異常が判明するてんかんが沢山でてきました。こうしたことから、最近では、てんかんの発作型のみならず、さまざまな臨床特性を拾い上げ、てんかん症候群という形でてんかんを分類しようという方向に話が進んできています。しかし、これについては,その分類があまりに煩雑ですので、ここでは詳細を省きます。
てんかん発作は生活に悪影響を及ぼし、ときに死に直結することもあります。ですから、何とか止める必要があります。てんかん発作の原因は異常放電ですから、当然、てんかんの治療は、てんかん発作をおこす異常放電が繰り返し起きないようにすればいいはずです。しかし、歴史上、これがうまくできるようになったのは、ほんの最近のことです。19世紀半ば頃、てんかん発作を効果的に食い止める薬がようやく発見され、それ以降、薬物によるてんかん発作のコントロールが徐々に可能になってきて、さらに、外科的手法や食事によるてんかんへの対処法も開発されてきました。
19世紀ヨーロッパ臨床神経学
てんかんに対しドストエフスキーがどんな治療をうけていたのか、よくわかりません。おそらく、さまざまな「治療」をうけていたでしょう。しかし、かれが生きていた時代、発作を消失させる効果的治療法は皆無といってよい状態でした。ですから、かれがうけた「治療」の大半は効果を示さなかったと推定されます。かれがうけた「治療」についてよくわからないのは、そのせいもあるでしょう。
しかし、ともかくも、ドストエフスキーが受けたであろうてんかん「治療」を推測するには、当時の医学状況を概観しておく必要があります。
かれが生きていた十九世紀は、てんかんも含む神経疾患への理解が深まり、臨床神経学が西欧諸国で花開いた時代でした。
フランスではドゥシャンヌが電流によって筋肉が収縮することを発見、ここから電気神経生理学が発展することになります。かれは先天性の進行性筋ジストロフィー、デュシェンヌ型進行性筋ジストロフィーにその名をとどめています。
また、同じフランスのシャルコーも鋭く精密な臨床観察によって筋萎縮性側索硬化症をはじめとするさまざまな神経疾患について業績を残し、その臨床講義集「神経系疾患講義」は後々まで世界中の臨床神経科医のバイブルになりました。かれが勤めていたパリのサルペトリエール病院は臨床神経学のメッカとなり、マリー、バビンスキーなど名だたる臨床神経学者がシャルコーの後に続いています。オーストリアのジークムント・フロイトもシャルコーのもとで研鑽を積み、催眠術のヒステリー治療への応用を学び、これがのちに精神分析へとつながることになります。
また、ドストエフスキーと同時代、パリには「医学臨床講義集」の著者として有名な卓抜な臨床家トルーソーもいて、彼の名前は低カルシウムの患者にみられる特徴的な手の症状、トルーソー徴候に残っています。
一方、ドイツにはロムベルグ徴候(脊髄病変の有無を調べる神経徴候で、もともとは晩期梅毒合併症である脊髄癆の診断に用いられました)に名が残るロムベルグ、電気神経生理学の大家エルブ、膝蓋腱反射の有用性に着目した慧眼の精神科医ウェストファールらがいました。
しかし、ドストエフスキーが活躍した19世紀後半、近代てんかん学の基礎を築いたのはイギリスのジャクソンとガワーズでした。
ロンドン病院のジャクソンは失語症の研究を通して臨床症状と大脳局在との関連に注目するようになります。そして、てんかん発作も大脳局在論で説明可能であると確信し、「てんかんとは灰白質の偶発的、突発的、過剰性、急速性、局在性発射に名づけられたものである」という、近代てんかん学の扉を開くてんかんの定義を提唱します。この定義によっててんかん発作を論理的、合理的に理解する道が開かれ、その後の脳波の発見と相まって、てんかんにかんして信頼に足る確固とした研究が積み重なっていきました。その先鞭をつけたのが同じ英国のガワーズでした。筋ジストロフィーの患者さんにみられる、膝に手をおいて立ち上がろうとする徴候、ガワーズ徴候で有名なガワーズは、筋疾患のみならず、てんかんについても多くの業績を残し、1881年に出版された「てんかん及び他の慢性痙攣性疾患」は後々までてんかん学の分野で大きな影響を与えました。
臭化カリウム(ブロム)
ドストエフスキーが生きた19世紀には、このように、てんかんの病態に関する理解が深まってきていました。しかし、治療にかんしては旧態依然たる状態が続いていました。一般に、病態解明から有効な治療法に至る道は険しく、その開発には長い歳月と「僥倖」を必要とします。そのことは、たとえば、パスツールやコッホが細菌学を創始してからペニシリンの発見までに半世紀以上かかり、しかも、培養実験の失敗がペニシリン発見のきっかけになったことからもご想像頂けるかと思います。
てんかんも同じでした。
19世紀初頭、サルペトリエール病院で近代精神医学の基礎をうち建てたエスキロールは30名のてんかん患者にさまざまな治療を試み、その有効性を報告しています。その治療とは瀉血、下剤投与、入浴、焼灼術、そして、さまざまな薬物療法でした。どの治療によっても、数週間から数ヶ月、発作が消失したとされています。しかし、最終的にはいずれの「治療」によっても発作が再発しました。持続的な効果がみられた治療法は一つもありませんでした。発作が止まったといっても、おそらくは、暗示効果、いまでいうPlacebo(偽薬)効果が少なからず寄与していたのでしょう。そして、エスキロールがおこなった「治療」の中で、現在もてんかんの治療として行われているものはありません(ちなみに、このエスキロールの本をドストエフスキーはヤノフスキーから借りて読んでいたようです)。
ドストエフスキーが40代半ばであった1866年、てんかんの「薬物療法」に失望したある著明なアメリカ人医師は、てんかん患者には「自然治癒力」に縋りつくよう説得するしかないと書いています(Friedlander WJ The History of Modern Epilepsy)。
ところが、1857年、ロンドンでてんかん治療の流れを大きく変える発表が行われました。シーヴキングという医師がアンチモン、ジギタリス、硝酸銀で治療した52名のてんかん患者の治療成績を発表した際、これに対するコメントとして、産婦人科医のチャールズ・ロコックが驚くべき治療成績を報告したのです。月経期に増悪するヒステリー性てんかんの女性患者15名に臭化カリウム(臭化カリウムは英語でBromideといい、日本ではブロムと呼ばれることも多いので、以下、これに従います)を投与し、14名で発作をうまくコントロールできたというのです。
しかし、ロコックは抗てんかん作用を期待してブロムを使ったわけではありません。当時、どういうわけか、セックスとてんかんの間に強い関連があると信じられていました。とくに、マスターベーション、オナニーなどの自慰行為はてんかんを含めた精神疾患の重要な原因の一つとみなされていました。自慰行為によって血液が脳に貯まり鬱血する(もしくは、逆に、血液が脳から逸脱して虚血になる)のがいけないというのです。このため、てんかんを含めた精神疾患の治療として去勢術や割礼までもが大まじめに議論され、実際におこなわれていたようです。シーヴキングへのコメントの際にもロコックは、オナニーがしばしばてんかんの原因となっており、そうした症例は増加傾向にあるにもかかわらず見過ごされていると「警告」しています。
そこで、「性欲抑制剤」ブロムを使ってみたのです。
ロコックがブロムを使う「根拠」となったのは、ブロム10粒を1日3回服用して一時的に不能になった男性がいるというドイツからの報告でした。この論文を読んで、月経期にヒステリーてんかんの発作を起こす女性にブロムを投与して性欲を減退できれば、てんかん発作を抑えられるかもしれないとロコックは考えたようです。そこで、臭化カリウムを投与し、性欲とはまったく無関係の驚くべき抗てんかん作用を発見することになったのです。ペニシリンの例にみられるように、医学も含めた科学の歴史においては、偶然が新発見に重要な役割を果たすことがあります。いわゆる、セレンディピティです。スコットはこれを「カジノ要因」と呼んでいますが、ブロムの抗てんかん作用の発見は、その典型例でした(D.F. Scott The history of epileptic therapy)。「理由づけは間違っていても結果は正しかった」のです。
ロコックはその後ブロムとてんかんについての論文は書いていないようです。しかし、1861年にラドクリフが出版した痙攣に関する本には「てんかんをもつ人々はロコック卿の名前を感謝の気持ちをもって思いだすべきだ」と書かれています。ラドクリフはロコック同様、ブロムをてんかん患者に試み、従来の「治療薬」とは雲泥の差の抗てんかん作用を確認していたのです。その後、ブロムはイギリスの医学界全体で徐々に使われるようになります。ジャクソンのてんかんに関する業績にもブロム治療の経験が相当寄与しているといわれています。ドストエフスキーが死んだ1881年に出版されたガワーズの「てんかん及びその他の慢性痙攣性疾患」には、ブロムが従来のてんかん治療法を駆逐したと記されています。
しかし、どうやら、イギリス以外の国でブロム治療が一般的になったのは、このガワーズの書物出版以降のことのようです。フランスでもブロムの効果が一般に認識されるようになったようで、1888年冬、画家のゴッホが前後不覚に陥り、みずからの耳を切り落としてアルルの病院に担ぎ込まれたとき、「てんかん」の診断のもと、主治医のフェリックス・レーがブロムを処方しています。
しかし、ブロムの効果が世界中の国々で知られるようになるまでには、いまでは考えられないぐらいの時間を要しました。そのことは、さきほどのアメリカの医学者の嘆きからも推し量ることが出来ます。残念ながら、ドストエフスキーが生きている時代、ブロムによるてんかん治療はロシアにはひろまらなかったようです。ですから、ドストエフスキーはブロムの恩恵を受けることはできませんでした。ドストエフスキーは「ブロム以前」のてんかん治療を受けざるをえなかったのです。
それがどんなものであったのか、よくわかりません。ヤノフスキーによって瀉血を施されていたことは、前に述べたとおりです。さすがに、去勢術は受けていないはずですが、割礼はどうなのでしょう。下剤、アンチモン、ジギタリス、硝酸銀などは勧められて飲んだかもしれません。また、夏になると毎年のようにドイツのエムス鉱泉で療養していたのも、一つには、「てんかん治療」としての入浴を勧められたのかもしれません。
しかし、ことごとく発作抑制には無力で、おそらく、そのたびにドストエフスキーは失望したことでしょう。
ロシアが好きで、海外旅行に出るとすぐに望郷の念に駆られてしまうドストエフスキーが3度も西欧諸国に旅立った目的の一つも「てんかん治療」だったようです。どういうわけか、ロシアで頻発していたてんかん発作が、海外旅行にでると、ウソのように頻度を減じたからです(海外生活の緊張がてんかん発作を起こしにくくしたのかもしれません)。ちなみに、「白痴」の主人公ムイシュキン公爵も「国外の」スイスでてんかんが「軽快」してロシアに戻って来るという設定になっています。
また、ドストエフスキーは海外旅行の際にドイツやフランスで名だたる医者の診療を受けようともしています。スースロワとの旅行を計画していた1863年6月17日、ツルゲーネフにあてた手紙でドストエフスキーは次のように書いています。
「小生は癲癇を病んでいまして、それがしだいに募っていくので、絶望に陥っているくらいです。どうかすると発作のあとで、二週間も三週間も、ご想像できないような憂愁におそわれるのです!実のところ、小生はできるだけ近いうちに、ベルリンとパリに向けて出発します。それはただただ癲癇の専門医の診察を受けるためなのです(パリではトルーソー、ベルリンではロンベルグ)。ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので、彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」
ドストエフスキーが臨床神経学史上の巨人たちの診察を受けることができたかどうか、わかりません。しかし、もし、受診できたとしても、有効な抗てんかん薬のないこの時代、ドストエフスキーが医者に対する不信感を払拭することはなかったでしょう。実際、ある時期を境に、ドストエフスキーはてんかんを不治の病と達観、てんかんに関しては、いかなる医者にもかからなくなってしまったようです。ドストエフスキーの死後、アンナは「ご存じでしょう、誰もこの病気を治すことができないのです」と語っていますから、てんかんがどうにもならないというのは、夫婦で共有された認識だったのでしょう。
ブロム中毒
さらに、万が一、ブロムが手に入ったとしても、それで、ドストエフスキーが満足したかどうかもわかりません。
ブロムはひどい副作用がでるからです。
ロコックの報告から13年後の1874年の時点で、すでに、ウイリアム・ハモンドがブロム中毒bromismについて報告していて「この男性の患者の姿形はとんでもないことになっている。首には巨大な膿瘍がみられ、まったくひどい状態にある。しかし、それでも、てんかん発作よりはましだ」と記載しています。ブロム中毒は加齢ともに増えることが知られていますから、もし服用していれば晩年のドストエフスキーがブロムの副作用に悩まされた可能性がおおいにあったと思われます。ブロムは血液の濃度がある一定水準を超えると副作用が多発することが知られています。このため、現在は血中濃度を指標に慎重に服用することになっていますが、当時はまだブロム濃度を測定する技術がありません。ドストエフスキーが副作用を訴えても「てんかん発作よりはまし」と服用継続を勧められたことでしょう。「怒りの閾値」が低かったドストエフスキーのこと、怒り狂ってすぐ服用をやめてしまったかもしれません。
気力喪失、易疲労性、集中力低下、食欲減退、集中力や記憶力の低下などはブロムの副作用として「まだ軽い」ほうで、ひどくなると、落ち着きをなくし、ひどい頭痛に襲われ、眠れなくなります。周りの状況がわからなくなって、鬱状態となり、記憶力が失われ、幻覚に悩まされ、痴呆状態になることもあります。これに加えハモンドがいうようなニキビ、膿瘍などの皮膚症状が顔を中心に全身に現れ、粘膜は乾き、舌はカサカサになって、べっとりと舌苔が付き、腸閉塞をきたすようなひどい便秘になることもあります。
これほどひどい副作用があるため、20世紀前半、より副作用の少ないフェノバルビタール、フェニトインなどの抗てんかん薬が商品化されると、ブロムはほとんど使われなくなります。実際、フェノバルビタールの有効性が報告された1912年当時「てんかんを治癒させる薬を見つけだす試みは破綻した。てんかんの治療を求めて患者がやってくると医者は無力感に苛まされる」と書いている研究者もいるくらいです。てんかん発作抑制にある程度有効であっても、その副作用ゆえに、ブロムが「実用的」とはいえないという認識がフェノバルビタール登場以前に広まっていたことが窺われます。
しかし、最近になって、ブロムはわずかに見直されています。これは、先ほど述べたように、血中濃度をモニターしながら比較的安全に使えるようになってきたからです。現存のてんかん薬では押さえきれないてんかん発作、とくに、重症乳児ミオクロニーてんかんといった悪性難治てんかんの痙攣コントロールのために、まれに使用されることがあります。さらに、フェノバルビタールなどの通常の抗てんかん薬ではひどい副作用がでる間歇性ポルフィリア症の患者さんのてんかん発作に対しては唯一安全な抗てんかん薬とされています。
鑑別診断
薬で8割近くが発作をコントロールできるということもあって、現在、てんかん外来にみえる患者さんで、ドストエフスキーほどたくさんの詳細な(そして、抗てんかん薬で修飾されていない「純粋な」)発作症状を聴取できる機会はそれほど多くありません。
さらに、ドストエフスキーの小説の中にはてんかんをもつ人物が何人も登場します。「女主人」のムーリン老人、「虐げられし人々」のネリー、「白痴」のムイシュキン伯爵、「悪霊」のキリーロフ、「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフですが、かれらの発作症状からもドストエフスキーのてんかん発作の症状が推測できます。もちろん、これら登場人物すべての発作症状がドスエフスキーの発作と同じだという保証はありません。ドストエフスキーのまわりにもてんかん発作をもつ人間はいたでしょうから、他人のてんかん発作を目にして、それを小説に援用したかも知れません。また、てんかんに関する医学書も山ほど読んでいたようですので、その中の症例の記載が頭に残っていたかもしれません。そして、それを小説で生かした可能性も十分あります。しかし、自らの発作体験をもとにしなければ描きえないような迫真的なてんかん発作症状を書き残しているのも事実です。中でも有名なのはてんかんに罹患している「白痴」の主人公ムイシュキン伯爵の症状で、その発作にはドストエフスキーの「自覚症状」がそのまま描き出されていると信じられてきました。このように、小説からもドストエフスキーのてんかん発作内容がある程度推定可能です。
これほど多くの詳細な病歴、それに、「自覚症状」にかんする情報が得られれば、ドストエフスキーがてんかんだったと確信をもって診断できます。記録に残されている症状はてんかん発作以外考えられませんし、てんかん発作と考えて、臨床上、何の矛盾もないからです。ドストエフスキーは脳波検査が可能となる前の19世紀の人ですから脳波所見はもちろんわかりません。しかし、脳波は補助診断手段にすぎません。これだけ証拠がそろえば、ドストエフスキーがてんかんを有していたのは確定的といっていいでしょう。
ところが、ドストエフスキーはてんかんなどではなかったと主張する人もいました。
その代表格は、精神分析の創始者フロイトです。ドストエフスキーはてんかんではなくヒステリーを有していた、というのがフロイトの診たてです。てんかん発作とみえるものは、エディプス・コンプレックスに基づく自己懲罰の現れにすぎないというのです。
「ドストエフスキーは自分がてんかんだといっており、他人からもそうみられていた。意識消失、筋硬直と、それに続く、虚脱がみられる激しい発作を起こしたからである」と書く一方で「かれのてんかん発作は神経症の一症状にすぎず、診断としては、『ヒステリー・てんかん』というヒステリーの中でも重篤な一病型の可能性が高い」とフロイトは断定しています。「ドストエフスキーのいわゆる<癲癇>の病歴の記録に不備があり、信頼でき」ず、「癲癇に類似した発作に類似した病的な状態をどう解釈すべきか明確になっていない」と不思議なことを書いています。なぜこんな結論に至ったのかよく分からないのですが、まさかとは思いますが、フロイトは焦点意識減損発作のようなてんかん発作を認識していなかったのかもしれません。また、「発作の記述そのものは、私たちの判断を下すには役に立たない」とてんかん発作診断の一丁目一番地を否定するようなことを書いています。さらに、「発作はドストエフスキーの幼年期にまでさかのぼるものであり、最初はごく穏やかな症状で収まっていたが、18歳のときに、父親の殺害事件という激しい興奮を引き起こす体験をしたあとに、癲癇という形をとるようになったと考えるのが適切だろう」と空想としか思えない不適切なことを付け加えています。いうまでもありませんが、深刻な体験や興奮はてんかん発作の誘因にはなっても、原因にはなりません。フロイトはシュテファン・ツヴァイクへの手紙の中で「てんかんは精神的素性とは無関係の器質性脳疾患であり、通常、知的退行、知的崩壊を伴うものです」と書いていて、脳の器質性疾患の徴候がないこともドストエフスキーがてんかんではなかった根拠にしています。もちろん、器質性脳疾患のないてんかん患者さんはいくらでもみえます。19世紀のてんかん学を先導していたフランスに留学したフロイトにとってさえ、てんかんの概念はこの程度のものだったのでしょうか。しかし、てんかんに関する知識の問題だけではないような気もします。たとえば「恍惚前兆」について「発作の前駆症状(アウラ)のうちで、至高の恍惚状態が一瞬だけ訪れるが、それは父親の死の知らせを受け取ったときの勝利と解放の感覚が固着したものだろう。しかしこの恍惚の瞬間の直後に、残酷な罰がまっているのであった」とフロイト自身の妄想としか思えないようなことまで書いています。こうした強引な文章をみると、フロイトにとって、まずヒステリーという診断ありき、という感が否めません。ドストエフスキーのてんかん発作を何としてでも「父親殺し願望に由来するヒステリー」という仮説と結びつけたかったようです。そのために、無理矢理読者を説き伏せようとしているようにみえます。現在、フロイトの説を支持する医学者はいません。
てんかん発作があったのは間違いないとして、つぎに問題となるのは、ドストエフスキーがどんな発作型をもっていて、どのようなてんかんを有していたか(つまり、どのような原因(病因)でてんかんを発症していたのか)という点です。
発作型は、前に述べましたように、焦点起始発作および焦点起始両側強直間代発作を考えるのが一番自然です。
上に述べた、妻、友人、医師による発作の記録はドストエフスキーが運動性痙攣発作(たぶん強直間代発作でしょうが、運動症状が主体の焦点起始運動発作で終わることもあったかもしれません)がみられていたこと、しかし、覚醒時に発作がおきた場合には何らかの症状(前兆)が痙攣発作に先行していたことを示しています。実際、ドストエフスキーが自分の発作を「微風をともなう発作coups de sang par rafales」と呼んでいたことは前に述べたとおりです。前兆(Aura:ギリシャ語で微風を意味する)だけで終わるような発作もあったのかもしれません。前兆は情動発作や認知発作のような焦点意識保持発作ですから、ドストエフスキーには焦点意識保持発作から強直間代発作(もしくは焦点意識減損発作)に進展する発作がみられていたと推定されます。
アンリ・ガストーの全般てんかん説
ところが、ドストエフスキーのてんかん発作は焦点起始発作ではなく全般起始発作だったと主張した人がいます。
現代てんかん学の枠組みを作るに当たって大きな足跡を残したフランスのてんかん学の大家、アンリ・ガストーです。
1978年のエピレプシア誌にガストーは「フョードル・ドストエフスキーのてんかん症候学とてんかん予後論に対する意図せざる寄与」というタイトルの論文を発表してドストエフスキーのてんかんについて論じていますが、ここでかれは「ドストエフスキー全般てんかん説」を展開したのです。しかし、その後、1983年に同じエピレプシア誌でオランダのヴォスクイールがガストーの説に疑問を呈しました。そこで、その一年後、ガストーはヴォスクイールの疑問にも答える意味も兼ねて、ドストエフスキーのてんかんに関する論文を再びエピレプシア誌に発表しました。
以下に、ガストーの主張のあらまし、そして、それに対してヴォスクイールが提議した論点をみてみましょう。

ヘンリー・ガスト― (1915 -1995) 55歳Hallmarks in the History of Epilepsy From Antiquity Till the Twentieth Centuryから https://www.researchgate.net/profile/Emmanouil_Magiorkinis/publication/221918087/figure/fig5/AS:305123592032260@1449758541680/Henri-Gastaut-1915-1995-In-1970-Penry-and-Cereghino-were-employed-in-designing.png |
素因性全般てんかん説の根拠
ドストエフスキーが死んでから一世紀、この間にロシアのこの作家のてんかんについて無数の論文が書かれたが、かいつまんで言うとそれは次のようになる、と最初の論文でガストーは述べています。
「ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんに罹患していたと推定され、その発作には至福感と恍惚感からなる独特な前兆が先行していた。てんかん発作はこの傑出したてんかん患者の思想、感情、文学作品に多大な影響を与えたと考えられる。ドストエフスキーはキリストをモデルとした充足感と愛につつまれた世界を熱望しており、その著作には普遍的人類愛が表現されている。一生を通して、毎月、発作がはじまる際、恍惚発作がかれに天国への扉を開いてみせていたことが、おそらく、その一因であろう」
自分もこうした説をこれまで信じてきた、いや、それどころか、こうした考え方の形成に自ら関わりさえした、とガストーは述べます。ところが、これは間違いだった、と自らを断罪します。ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんではなく、素因性の全般てんかん(特発性全般てんかん)に罹患していたというのです。そして、ドストエフスキーの天才は生来のものであり、てんかんゆえにその天性が磨かれたわけではない、てんかんがあったにもかかわらず才能を発揮したとみるべきだ、とガストーは主張しました。
ドストエフスキーのてんかんを素因性全般てんかんと考えるべき根拠をガストーはいくつもあげています。
ひとつは、有名な「恍惚前兆」にかんするものです。恍惚前兆は「ドストエフスキー焦点起始発作説」の根拠とされていましたが、ガストーは恍惚前兆の存在そのものに疑問を呈します。恍惚前兆はドストエフスキーの創作にすぎず、そのてんかん発作は焦点起始発作から全身痙攣に進展していたわけではない、というのです。一方、素因性てんかんである証拠として、ドストエフスキーには脳の器質性病変を疑わせる神経学的異常や精神症状がみられなかったこと、息子がてんかんで死亡しており家族性素因が疑われることを挙げています。
恍惚前兆
以上の中でもっとも力をこめて書かれているのが、ドストエフスキー焦点起始発作説の根拠となる恍惚前兆についてです。もともとドストエフスキーのてんかん発作には恍惚前兆など存在していなかった、というのがガストーの主張です。
まず、ガストーが槍玉に挙げている「伝説的な」恍惚前兆についてみてみましょう。
前兆とはてんかん発作直前に患者さんが経験する発作の先駆けともいうべき感覚症状です。
てんかん発作としての感覚症状のうち視覚発作などは「ヘンなものがみえる」「目の前が真っ暗になってみえない」というようにはっきり言葉でいいあらわすことができます。しかし、異常放電の生じる部位によってはそうした明確な感覚症状をもたらさないことがあります。「何となくヘンだ」「発作がやってくる予感がする」と感じるのですが、それをはっきり言葉で言い表すことができず、小さな子ですと、おかしいと感じてお母さんのところに駆け寄ってくる、そして、その後になって、他人にもわかる発作症状が出現することがあります。発作直前の言葉にできないこうした異様な感覚を昔は前兆と呼んでいました。以前述べたように、てんかん発作は異常電流の開始形式で二つに分けられます。脳の一部から始まる焦点起始発作と、局在が明らかではない全般起始発作です。そして、焦点起始発作は意識消失を伴うかどうかで焦点意識保持発作と焦点意識減損発作に分けられます。前兆のときは何かを感じ取っているわけですから、意識がまだ保たれているわけで、前兆は意識保持発作です。そして、意識保持発作のうち前兆は感覚発作、自律神経発作、動作停止発作、認知発作、情動発作からなる焦点非運動起始発作に位置づけられる症状といっていいでしょう。前兆を感じるときすでに脳のどこかで異常電流が流れ始めていますから、もちろん、前兆はてんかん発作そのものです。
全般起始発作 焦点起始発作 焦点意識保持発作:意識(+) ← 前兆 焦点意識減損発作:意識(±~―) |
こうした前兆の多くは、身体の違和感とか、胃からこみ上げてくるような吐き気など、不快感を伴うことがほとんどです。しかし、恍惚前兆はこれとは逆で、快感を呼び起こすような前駆症状です。従来、ドストエフスキーの発作にはこの恍惚前兆が先行していたと信じられてきました。
その証拠とされたのが小説「白痴」の中で主人公ムイシュキン伯爵がおこすてんかん発作です。
「……何かしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいも続いたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしりでた痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力もってしても、止めることのできないような叫びであった。続いて瞬間に意識は消え、真の暗黒がおそったのである……
……癲癇の発作……の瞬間にはふいに顔、ことに目つきがものすごく歪む、そして痙攣が顔と全身の筋肉を走って、恐ろしい……悲鳴が胸の奥のそこからほとばしり出る……誰か別の人間がいて、それが発した声のようにさえ思われる…(ドストエフスキー「白痴」 米川正夫訳)」
てんかん発作を起こす直前のこの「異常な内部の光」について、ムイシュキン公爵は詳細に追想します。
「……憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でもあげるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとくすぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に忽然と溶け込んでしまうかのように思われる。しかし、この瞬間、この光輝は、発作が始まる最後の一秒……の予感にすぎない……」
これが恍惚前兆といわれているものです。そして、この迫真的描写は実際にこの前兆を体験したものにしかなしえないだろうと推定されてきました。つまり、ドストエフスキーの前兆そのものだろうと考えられてきたのです。
この一瞬の間に過ぎ去る「光輝」について公爵は次のように分析します。
「感覚のこの一刹那が、健全なときに思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして至純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことは愚か、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、至純な生の総和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、少しも問題にならない!……もしその一刹那に、つまり、発作前、意識の残っている最後の瞬間に、『ああ、この一瞬間のためには一生涯を投げ出しても惜しくはない!』とはっきり意識的にいういとまがあるとすれば、もちろん、この一刹那それ自体が全生涯に値するのである」
そして、ロゴージンに次のように語ります。
「この一刹那に、ぼくはあの時はもはやなかるべしという警抜な言葉が、なんだかわかってくるような気がした……あの癲癇もちのマホメットが引っくりかえした水瓶から、まだ水の流れ出さぬさきに、すべてのアラーの神の棲家を見つくしたというが、おそらくこれがその瞬間なのだろう」
似たような記述が「悪霊」にもみられます。
「よる寝ない習慣をやめなきゃ駄目だよ」と諭すシャートフに対しキリーロフは次のように答えます。
「ある数秒間があるのだ――それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ……それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といった……有頂天の歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ……もし十秒以上続いたら、魂はもう持ちきれなくて、消滅してしまわなければならない……ぼくはこの五秒間に一つの生を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね……」
「きみ、癲癇の持病はないのかい?」というシャートフの問にキリーロフは「ない」と答えます。
しかし、シャートフは忠告します。
「じゃ、今に起きるよ。……ぼくはある癲癇もちから、発作の前の感覚を詳しく話してもらったが、いまきみのいったのと寸分ちがわない。その男もやはり五秒間と、はっきり区切ったよ。そして、それ以上は持ちきれないといったっけ。きみ、マホメットが甕から水の流れ出てしまわないうちに馬に乗って天国を一周した話を思い出して見たまえ。甕――これがつまりその五秒間なんだ。君の永久調和にそっくりじゃないか。しかも、マホメットは癲癇持ちだったんだからね。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇だよ」(以上、米川正夫訳『悪霊』)。
小説だけではありません。ドストエフスキーの思い出を書き綴ったストラーホフとソフィア・コバレフスカヤもドストエフスキーの恍惚前兆について触れています。
まず、ストラーホフですが、かれはドストエフスキーの死後2年目に出版した「回顧録」に次のように書いています。
「フョードル・ミハイロヴィチは発作前の高揚した気分について何度かわたしに話してくれたことがある。『ほんの一瞬、わたしは至福に満たされることが何度かあった。それは、普通の時には想像もつかない、それを経験した人間にしか想像もできないようなものだ。そういうとき、わたしは自己や全宇宙との永遠なる調和を直覚する。全知覚はおそろしく鮮明となり、その心地よさはたとえようもない。その数秒間の至福の時を十年間の人生、いや全生涯と取り替えてもいいという人間だっているかもしれない』と」
ソフィア・コバレフスカヤはドストエフスキーが彼女と彼女の姉に語って聞かせた「最初」の発作の模様を「こども時代の思い出」に書き残しています。発作は、シベリア流刑中の復活祭イブの夜、思いがけず親友が尋ねてきて、ドストエフスキーがこの友人と夜遅くまで神について語り合っていたとき起こりました。突然、ドストエフスキーが「神は存在する、まさしく存在するのだ!」と叫んだというのです。近くの教会から深夜のミサを告げる鐘が鳴り始めたときのことでした。ドストエフスキーは語り続けました。
「あたりの空気が巨大な音響につつまれ、私は動こうとしたが、その時、天国が地上に舞い降り、私を呑みこんでしまうのを感じた。本当に私は「神」に触れたのだ。神が私のところにやってきたのだ。『然り、神は存在する』と私は叫んだ。しかし、それ以外のことは何も覚えていない。われわれてんかんもちが発作前数秒間に感じる幸福をあなた達のような健康人は想像することもできまい。コーランの中でマホメットは、天国を見、天国に行ってきたといっている。みずからを賢人とうぬぼれている間抜けな連中はマホメットを嘘つき、いかさま師と信じて疑わない。しかし、違うのだ、断じてかれは嘘つきなどではない、かれはてんかん発作の間に実際に天国に行ってきたのだ。私同様、かれもこの病の犠牲者だったのだ。この至福の状態がいったいどのぐらい続くのか、数秒か、数時間か、数ヶ月か、それはわからない。しかし、信じ給え、人生が与えてくれるはずのすべての歓びを提供されても、わたしは、この至福の状態と交換しようとは思わないだろう」
似たようなことを、ドストエフスキーはウランゲル男爵にも話していたようです。釈放後まもなく、発作の前兆を「筆舌に尽くせぬ幸せ」「言葉でいい表せない官能に満ちた感情」「言葉で表せない肉感的感情」と表現していたとのことです。
創造された恍惚前兆?
しかし、ガストーは「恍惚前兆」はドストエフスキーの創作にすぎず、元来、そうした前兆などは医学的にありえないと主張します。
その根拠として、日記にこと細かに自らのてんかん発作のことを記していたドストエフスキーが恍惚発作についてはなにも書き残していないこと、ストラーホフとソフィア以外の友人や妻のアンナが「恍惚前兆」についてなにも述べていないことを挙げています。さらに、ガストーは、みずからの臨床経験をふり返り、「恍惚前兆」があるてんかん患者に出会ったことがない点をつけ加えます。
たしかに、ドストエフスキーは恍惚前兆について日記に何も書き残していないようです。前にも述べたてんかんにかんする雑記帳にもまったく触れられていません。また、ドストエフスキーが過去の女性関係も含め甘えかかるように何ごとも話し、相談していた愛妻アンナも「思い出」の中で恍惚前兆についてまったく触れていません。にもかかわらず、ストラーホフとソフィアだけが「恍惚前兆」について書き残しているというのは、たしかに妙です。
ガストーがこの論文を書くきっかけとなったのはカトー(Jacques Cateau)が書いたドストエフスキー伝だったようです。その中でカトーはストラーホフとソフィアがまったく違う時期(シベリア時代以降とシベリア時代)に起きたドストエフスキーの恍惚前兆について記しているにもかかわらず、内容が極似していることを指摘しているそうです。すなわち、ストラーホフの語った発作は、復活祭前夜、10時をすぎた夜遅く、大変重要な抽象的な話題について熱気を帯びた会話の最中に起きたことになっていますが、一方、ソフィアが語る発作も復活祭前夜、古い友人と文学や哲学について話しているときに起きていて、発作内容のみならず、周りの状況も似ているというのです。そこから、ガストーはストラーホフの手記からかなり遅れて発表されたソフィアの手記はストラーホフの手記をそのまま転用したのではないかという疑念を呈します。
さらに、ドストエフスキーが語ったとストラーホフが書いている「恍惚前兆」の内容は「白痴」や「悪霊」の文章の引き写しにすぎなかった可能性をガストーは指摘します。ドストエフスキーは恍惚前兆についてストラーホフに語ったことなどなかったのではないか、というのです。では、「白痴」や「悪霊」にみられる「恍惚前兆」は何かというと、おそらく、それは、あとで述べる発作前駆症状からドストエフスキーが創造したものにすぎず、発作直前にかれが焦点意識保持発作としての「恍惚前兆」を体験していたわけではないというのです。
たしかにそういわれてみますと、「白痴」「悪霊」の記述とストラーホフやソフィアの手記の話はよく似ています。
しかし、先に述べましたように、ドストエフスキーは「白痴」「悪霊」執筆のずっと以前、釈放直後にウランゲリに恍惚前兆について述べています。これが間違いないとすると(ウランゲリもストラーホフのように「白痴」などを読んだあとで、「思い違い」で語ったのであれば別ですが)ガストーの主張は的外れということになります。
しかし、ガストーのいささか強引なこの仮説の裏には、かれの豊富な臨床経験があったようです。
みずからの35年にわたるてんかん診療経験をふりかえって、ガストーは「恍惚前兆」をもったてんかん患者などは一人もいなかったと述べていいます。つまり、医学的にみて、「恍惚前兆」の存在そのものに大いなる疑念があるというのです。
同じことをヴォスクイールも書いています。
かれはオランダ中のてんかん学者に恍惚前兆を有する患者を経験したことがあるか聞いて回ったことがあるそうです。しかし、恍惚前兆のある患者を診たことのある医師は一人もいなかったとのことです。
かくして、「恍惚前兆」は側頭葉てんかんの代表的前兆のように信じられてきましたが、それは、ドストエフスキーの創造力、筆力に幻惑されたにすぎず、そのような前兆をもつ患者は皆無に等しい、とガストーは断定します。実際、そこまでいわれると「恍惚前兆」はドストエフスキーの恐るべき創作力が生み出された幻にすぎないような気がしてきます。
ドストエフスキーの恐るべき創作力に幻惑されるといえば、わたしにも似たような経験があるからです。
はじめてドストエフスキーの恍惚発作について知ったのは故和田豊治先生の「臨床てんかん学」においてでした。しかし、それを読んで以後、30年以上にわたっててんかんの患者さんを診てきていますが、恍惚前兆を訴える方に遭遇したことは一度もありません。ただ、それは、小児科医として子どものてんかんだけを診ているためで、成人の側頭葉てんかんなどでは恍惚前兆が結構あるのだろうと漠然と思ってきました。ところが、ガストーの論文を読んで、おやおやと思い、念のため、もう一度、和田先生の本を読み返してみたら、「てんかんの前兆として躁状態に近い喜悦や歓喜(pleasure)といった感情状態がもたらされうることはむしろ稀である」と和田先生はコメントされていたのです。しかし、このコメントを読み返すまで、この文章のことは完全に忘れていました。和田先生のこのコメントのあとに、「白痴」の本文が引用されていたのですが、どうやら、「諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境」という文章があまりに強烈だったためでしょう、「むしろ稀である」という和田先生のコメントのほうはきれいさっぱり記憶から吹き飛んでしまっていたようです。
このように、恍惚前兆はめったにみられません。
しかし、全くないというわけでもありません。
その証拠として、ヴォスクイールはボローニャ大学のグループが報告した恍惚発作をともなう側頭葉てんかんの一例を挙げています。報告されている症例は30才男性で、てんかん発症は13才、発作としては動作の停止と意識の混濁からなる焦点意識減損発作がみられていました。そして、そうした発作の前にこの男性は「言葉で言い表せぬ歓び」を感じとっていました。その歓びは、彼が愛してやまない音楽を聴いているときにわき起こる歓びに匹敵するものでした(セックスの最中に発作が起きたときの経験から、この歓びが性的快感とは別物だとこの男性は断言しています)。この発作が始まると不愉快な感情や思いが消え、男性は至福感に包まれました。その「恍惚前兆」の最中に脳波が記録されました。焦点意識減損発作のときによくみられる、脳波の平坦化とそれに続く律動波がこの「恍惚前兆」に同期して認められています。これによって「恍惚前兆」がまぎれもなくてんかん発作であることが確認されました。
「恍惚前兆」は日本でも報告されています(松井望、内藤明彦(1982) 恍惚発作を呈した側頭葉てんかんの1例—いわゆるドストエフスキーてんかんについて)。61歳の女性で、41歳の時、沢に転落して大けがをし、54歳の時、交通事故で頭部打撲によって意識不明となっています。おそらく、このいずれかの時の脳外傷が原因でしょう、59歳頃からてんかん発作らしきものがみられるようなりました。突然「神さまをみた」「うれしい夢を見た」「後光がさす」「ありがたい、ありがたい」と口走るようになったのです。しかし、本人はそのことをまったく自覚しておらず、覚えてもいませんでした。その後、仕事中に急に「神さまを見た」「幸せが一杯で涙が止まらない」と口走り、大声で泣き出すエピソードもみられるようになりました。この時は「極楽世界に行ったような気分となった」「うれしくて、うれしくて感謝の涙が吹き上げた」と説明しています。そうしているうちに、目つきが急に変わり、顔が引きつり、手を回すような自動症を伴う焦点意識減損発作が目撃されるようになりました。さらに「太陽がカッ,カッと照らしていき,心臓がひきつけられた。太陽の光のもとに万物が輝いていると神様が教えて下さったと感じ,うれしくて,幸せで感謝の涙が吹き上げた」あと、興奮し、大声で人に話しかけたり、笑ったりしました。自動症がみられたときの脳波が記録され、ボローニャの男性のように脳波が平坦化したあと、徐々に振幅を増す律動波が認められ、焦点意識減損発作があることが確認されました。残念ながら「恍惚前兆」と思われるときの発作時脳波は記録されていませんが、宗教的幸福感が突然はじまって、その後、意識が減損し、終わったあとに興奮状態が持続したことから、この女性の「恍惚前兆」もてんかん発作の一部であろうと推定されます。
2016年、ゲシュウィンドとピカードは「恍惚前兆」と考えうる発作の報告例はこれまでに52例に及ぶと記しています(Geschwind M, Picard F (2016) )。かれらは恍惚前兆の診断基準として (1) 強烈な肯定的感情(至福感), (2)肉体的満足感の高まり (3) 自己認識および外部認識の高まり(過剰な明晰さ)をあげています。ただし、恍惚前兆の存在に気づかれるためにはさまざまな障壁もあるようです。まず、恍惚前兆のなんともいえない感覚をうまく表現する言葉がみつからず、患者さんは「頭の中を泡が昇っていく」「身体全体が暖かくなる感じ」といった方向違いな表現で済ませてしまう傾向がある、とゲシュウィンドたちは指摘しています。このため、恍惚発作と気づかれないことがあるというのです。感情の激しい混乱を伴うであろう恍惚前兆を表現するには、ドストエフスキーのような自分の内面をしっかり見つめる能力、そして、豊かな知性、語彙能力が必要なのかもしれません。しかも、今まさに自分にすさまじい焦点意識減損発作や強直間代発作が起ころうとしているという恐怖心とない交ぜになって恍惚前兆が起こるわけで、「感動の幻覚」ともいうべきこの前兆の感情体験はあまりに奇妙きてれつで、患者さんはその体験をしゃべりたがらない傾向にあるようです。このため、ゲシュウィンドとピカードは恍惚前兆と診断されていない例も少なくないだろうと推測しています。
ちなみに、かつては、この恍惚前兆は側頭葉から起こると考えられていました。脳波的にも側頭部に棘波焦点がある例に多かったですし、腫瘍や海馬硬化など、側頭葉に病変が存在する症例に恍惚前兆がみられていたからです。しかし、そうした病変を取り去っても恍惚前兆が残る例のあることがわかってきました。
そこで注目を集めるようになってきたのが大脳半球の真ん中あたりを横切る外側溝の奥深くに位置する島回です。ヒントになるのはムイシュキン伯爵の恍惚前兆の後に続く「自分の胸の底からおのずとほとばしりでた痛ましい悲鳴の最初の響き」です。この痛ましい悲鳴は、喉頭が攣縮した時に発せられる音ではないかと一般的には推測されます。そして、この喉頭攣縮音はドストエフスキー自身の発作にも特徴的だったようで、ストラーホフは「半ば開いた口から飛び出てきたのは奇妙な雑音めいた音声だった」と回想していますし、アンナも「急に、おそろしい、人間のものとは思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた」「恐ろしい、人間のもとは思えない叫び声を発しました。普通の人間にはとても発することのできない耳障りな音です。この叫び声が聞こえると私は彼の部屋まで駆けていって、部屋の真ん中に突っ立っている彼を支えました」と振り返っています。さらに、雑記帳の中で癲癇発作のあと喉の痛みを訴えているのもこの叫声のせいかもしれません。
深部電極で脳波変化を捉えることができた島回からの発作では、最初、意識が保たれたまま、息苦しさ、身体の不愉快なしびれ、喉頭攣縮、たどたどしい発音がみられることが報告されています。とりわけ喉頭攣縮は島回発作に特徴的とされています。さらに、電気刺激によって島回発作が起こった5例中1例が恍惚前兆を思わせる千里眼的感覚と浮かれ陽気を感じています。さらに、もう一例は左半身が強烈な温かみに包まれています。また、他の恍惚前兆症例の報告では発作時脳血流シンチグラフィー(SPECT)で島回の血流増加が確認されています。島回は体性感覚、内臓感覚、感情、認識など多様な機能の皮質とつながりがある脳回で、そうした機能が島回という舞台の上で乱されて、恍惚前兆として現れるのかも知れません。
このように、稀ではありますが、「恍惚前兆」は全くないというわけではありませんし、それをもたらすてんかん焦点も島回あたりに特定されつつあって、その症状はドストエフスキーの発作症状にある程度、類似していることがわかってきています。

外側溝を押し開くとみえる島回(Wikipedia) |
恍惚前兆以外の前兆
さらに、もし、恍惚前兆がドストエフスキーの創作にすぎなかったとしても、それによって、ドストエフスキーに焦点起始発作がなかったということにはならない、とヴォスクイールは指摘しています。友人、妻、主治医が目撃し、書き残した覚醒時の発作の記録からは、恍惚前兆ではないにしてもドストエフスキーの発作に何らかの前兆、すなわち、焦点起始発作が先行していたことが推測されるからです。
「彼はくるりと引き返そうとしたが、私たちが何歩も行かぬうちに、たちまち発作を起こした」
「突然、ドストエフスキーは奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになった。そうした状態が数分間続いた後、虚ろな声でかれは「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄った」
「『死にそうだ』と叫びながらドストエフスキーはヤノスキーの助けを求め……やがて、投げ出すように頭を後屈させ、けいれん様の震えが始まった」
「一瞬、言葉を探し求め、何かを要求するかのように彼は動きを止めた。わたしは彼に注目した。何かとてつもないことでも喋ってくれるのではないかと期待したのだ。しかし、半ば開いた口から飛び出てきたのは奇妙な耳障りな音だった」
「突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから身体を浮かすようにして私の方にもたれかけてきた。すっかり変わってしまったその顔つきをみて私はぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとも思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた」
以上の記載によって、覚醒時の発作では、痙攣する前、発作が来ることを感じとったかのようにドストエフスキーが「くるりと引き返そうとし」たり、「恐怖に襲われたような目つきになった」り、「言葉を探し求め、何かを要求するかのように……動きを止めた」り「何かを言いかけた」りしていたことがわかります。このことは、恍惚前兆ではないにしても、何らかの発作を予感させる症状、すなわち前兆(焦点意識保持発作)が痙攣発作に先行していたことを示唆しています。やはり、ヴォスクイールが主張するように、ドストエフスキーのてんかん発作は焦点起始発作と考えたほうがよさそうです。
発作前駆症状
ガストーが指摘しているように、ドストエフスキーは発作前駆症状も経験していたようです。
てんかんの患者さんのなかには、発作の数日前、あるいは、数時間前から、発作を起こすのではないかと思わせるおかしな行動を示す方がいます。理由もなく、妙にそわそわしたり、怒りっぽくなったり、乱暴になったりするのです。発作がくることを患者さん自身が自覚している場合もありますし、「今日か明日ぐらいが怪しい」などと予測される保護者の方もみえます。このような、発作を予告するような、しかし、前兆のように発作直前にみられてそのまま発作につながるものではない症状を、発作前駆症状といいます。てんかんの患者さんの1-4割にみられるという報告がなされています。発作が止まりにくく、発作頻度が多い患者さんにみられる傾向があるようです。ドストエフスキーがてんかん発作の雑記帳に「夕方から、いや昨日も強い予感があった」と書いているのも、前に言いましたように、この発作前駆症状かもしれません。
前駆症状は、てんかん発作、あるいは、前兆とちがい、じわじわと始まります。症状としてもっとも多いのは先程述べたような行動の変化です。発作の前になるといつもと違って動揺しやすくなったり、気が短くなったりします。苛立って、何にでも当たり散らすようになり、それが数時間、あるいは、数日、続くこともあります。本人も、心が高ぶり、抑えがきかず、気が短くなって、怒りっぽくなっていることを自覚していることがあります。しかし、なぜかと聞かれると「言葉では説明できない、とにかく、おかしな気分がする」と答えるだけです。さらに、思考も乱れます。思考スピードが落ち、会話でも動作でも反応に時間がかかるようになります。融通が利かず、注意力散漫となり、忘れっぽくなります。何事にも決断が下せず、いろいろやろうとしながら、結局、何もできません。何かしようとしても、本当に何をしたいのかわからないようにもみえます。本人は「考えるのに時間がかかる感じがする」、「頭の中がスローモーションで動いている」と訴えます。ただし、例外的に、逆に、思考スピードが異様に高まって、周囲を驚かせることもあります。
気分の変動もよくみられます。たいていは気分が沈みます。不安になったり、悲しくなったりして、ときには、無気力に陥って、何事にも無関心となります。
これ以外にも、疲れやすくなったり、眠くなったり、うまく喋れなくなったりすることがあります。自律神経症状が現れることもあります。身体がほてったり、逆に、手足が冷たくなったり、やたらとトイレに駆け込んだり、食欲がなくなったり、逆に、食欲が亢進したり、動悸がしたりし、頭痛がしたりします。
ドストエフスキーは小説「白痴」のなかで、こうした発作前駆症状が疑わせるムイシュキン公爵の行動、心理を書き記しています。
「白痴」の第二編の5、ムイシュキン公爵が「恍惚前兆」に引き続いて痙攣で倒れる日のエピソードです。
この日、公爵は一番列車に乗って半年ぶりにモスクワからペテルブルグに戻ってきます。そして、レーベジェフの家を訪れ、ナスターシャの安否を尋ねます。さらに、ラゴージンの家にも寄って彼としばらく話をします。その後、ナスターシャに会おうとしてレーベジェフの義妹の家を訪ねますが、不在を告げられます。仕方なく、宿に戻ったところでラゴージンにナイフで殺されそうになるのですが、ちょうどその時、てんかん発作が起きます。
その日の朝、ペテルブルグの停車場で公爵は「だれかの怪しい、燃えるような二つの目が、列車で到着した人々を取り囲む群衆の中に、突如ちらりとひらめいたように」感じます。これは、公爵をつけ狙うラゴージンの目ですが、「沈み込んでふさぎがち」だったにもかかわらず、群衆の中に埋没しているはずのわずかな視線に気づいており、公爵の神経が妙にとぎすまされていることを暗示しています。また、レーベジェフの家では「頭痛」を訴え、別荘地での静養をレーベジェフに薦められます。さらに、ラゴージンの家ではペテルブルグ駅での「二つの目」のことをラゴージンに話し、「へえ!いってえだれの目だったんだろう?」としらばっくれるラゴージンに「人込みの中だったから、ただそんな気がしたばかりかもしれないよ……ぼくはなんだかしだいに、5年前よく発作がおこったときと、同じような心持ちになって行くみたいだ」と公爵はつぶやきます。
しかし、明らかにおかしくなるのは、ラゴージンと別れて、夕方6時頃、別荘地行きの列車に乗り込むあたりからです。
いったんは列車の座席に座ったものの、公爵は「切符を床へたたきつけ」停車場を出ます。そして「自分がことに病的な気持ちにとらえられているのを感じ」ます。それは「以前病気の激しかったとき、発作の襲おうとするまぎわによく経験したのと、ほとんど同じ気持ち」でした。「こうした発作の起こりそうなときの彼は、自分でも知っていたが、おそろしくぼんやりしてしまって、よくよく注意を緊張させて見ないことには、人の顔やその他のものを一緒くたにして、間違えることが多かった」のです。自分を刺し殺すかもしれない象牙の柄のナイフ、つけ狙うラゴージンの二つの目、ある宿屋で起きた殺人事件など、さまざまな想念が公爵の頭の中で走馬燈のように駆け巡ります。その一方で、例の恍惚前兆のことにも思いを凝らそうとしますが(このあたり、ドストエフスキーは、発作前駆症状と前兆とをはっきり区別せず書いており、このことが、先ほど述べた、ガストーの「恍惚発作」創造説の根拠になっているわけです)、またも、象牙の柄のナイフに思考の矛先が戻ってきます。やがて、公爵は「どうかするとすべてのものが混沌として、でたらめで、醜陋をきわめることがある」と感じながらナスターシャを尋ねてペテルブルグ区にやってきます。そして、「病気は再発しかかって」いて、それは「疑うまでもない」という確信に至ります。ナスターシャは不在で、ムイシュキンは仕方なく宿に帰ります。そして、宿の階段をのぼって踊り場にさしかかったとき、ロゴージンが襲いかかってきます。「ロゴージンの目はぎらぎら輝き、物狂おしい薄笑いに歪んで」いて、「右手があがって、なにやらその中できらりと光」りますが「公爵はその手を押しとどめようとも」しません。そして、このときてんかん発作が始まり、驚いたロゴージンは逃げ去ります。
ここに至るまでに、さまざまに揺れ動く公爵の心理とそれにともなう行動がみごとに活写されています。自らの体験から作り上げていったのでしょうが、患者さんが前駆症状を感じているときはこんな風なのかと思い知らされる見事な心理描写で、神業としかいいようがありません。しかし、その素晴らしさは全文を引き写してこないとわかって頂けないでしょう。まことに小林秀雄が言うように「引用は断念しなければならない。引用しようと思えば一章全体の語句が鎖につながれている様に起きあがってくる」のです。しかし、発作前駆症状を実感しうる得難い一章であることはたしかです。
また、「カラマーゾフの兄弟」には、てんかん発作は前もって予言できないことを知っているんだ、ごまかすな、とイワンがスメルジャコフに詰問する場面が出てきます。これに対し、スメルジャコフは、発作の日時は予言できないが、その予感だけは決まってある、と答えています。これも、また、ドストエフスキーのてんかん発作に際して、発作前駆症状がみられていたことを暗示しています。
この前駆症状というのは前兆と一応区別されて考えられています。発作そのもの、すなわち、脳内の突発性異常電流に直接起因する症状ではないとされています。しかし、本当にそうなのか、よくわかりません。前兆と異なり、前駆症状は捉えどころのない症状なので、医学的研究の対象となりにくく、十分な検証がなされていないのです。てんかん外科手術前の検査として、脳の表面や深部に電極を設置して脳波を記録すると、本人が自覚していない脳波上だけの「てんかん発作」が頻発していることがあります。もしかしたら、一部の患者さんでは、臨床症状を伴わないそうした「潜伏てんかん発作」の積み重ねが気分の変動などとして現れているのかもしれません。しかし、実際のところは、よくわかりません。
ちなみに、前兆が現れると、これが発作に移行しないように食い止めようとする患者さんがいますが、前駆症状なら、前兆に比べ時間的余裕があります。あらかじめ発作が起きにくくする薬を用意しておいて、発作が起きないようにすることができそうです。
しかし、これはあまりうまくいきません。
というのも、前駆症状は発作の警報として、あまり当てにならないからです。
たしかに、前駆症状が出現して、そろそろくるかなと思っていると発作が起こることがあるのは事実です。しかし、そろそろ来るかなと思って身構えていても、発作がこないこともあるのです。スメルジャコフは、発作の日時は予言できないが、その予感だけは決まってある、と答えていますが、そうとは限らないのです。そして、逆に、なんの前触れもなく、発作が起きることはめずらしくありません。
今まで述べてきた前駆症状の説明は「後追い研究Retrospective study」のデータを基にしたものです。つまり、発作が起きる前に何か異常を感じたか、何かおかしな行動がみられたかを患者さんたちやその周りの人たちに尋ね、発作前の異常な症状を集計解析したものです。しかし、前駆症状によって発作をあらかじめ予防しようと思ったら、前駆症状を感じ取ったり観察されたりしたとき、毎回、毎回、本当に発作が起きたのか(発作感知特異性Specificity)を検証する必要があります。一方、何にも感じないのに発作が起きたということはなかったか(発作感知感受性Sensitivity)も検討課題です。これを明らかにするには「前向き研究Prospective study」で究明する必要があります。
ドイツとアメリカの研究者が共同研究でこの疑問に答えようとしました(Maiwald et al (2011) Are prodromes preictal events? A prospective PDA-based study. Epilepsy & Behavior)。患者さんに前駆症状と発作を一ヶ月間、携帯情報端末、PDA(Personal Digital Assistants)に記録してもらったのです。
結果は残念なものでした。発作前駆症状が実際の発作の10倍近くみられていたのです。つまり、発作前駆症状がみられても、その後、実際に発作が起きたのは10回に1回にすぎなかったのです。このため、発作感知特異性はほぼゼロと判定されました。一方、発作感知感受性は41%で、発作の半分以上が、前駆症状なしに起きていました。この研究の対象は発作が頻発している患者さんだったようで、対象が変われば、また、違った結果がでたのかもしれません。しかし、今のところ、発作前駆症状で発作を予測しようとするのはあまり賢明ではないように思われます。
ただ、発作前駆症状は全般起始発作よりも焦点起始発作に多いことだけはどの研究でも一致しています。ですから、発作前駆症状の存在もドストエフスキーのてんかん発作が焦点起始発作であったことを支持しているといえるかもしれません。
素因性全般てんかんと側頭葉てんかん
以上述べてきたことから、ドストエフスキーのてんかん発作が焦点起始発作であることを否定するガストーの議論にはかなり無理があるということがお分かり頂けたかと思います。しかし、ガストーはこれ以外についても論を進めてドストエフスキーの素因性全般てんかん説を展開しているので、それについてもみてみたいと思います。
ただし、その前に、ガストーがなぜ全般てんかんにこだわるのか、また、側頭葉てんかんとは何かについて少し補足しておくべきかもしれません。
大脳半球は大きな脳溝を境として前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉の4つに区分されます。側頭葉は頭頂葉の下方に前頭葉と後頭葉に挟まれるようにして側頭骨に包まれて存在しています。ただし、側頭葉は脳の内側へ入り込んでおり、この部分も側頭葉に含まれます。側頭骨に接し、外側に位置する側頭葉を外側側頭葉、内側に入り込んだ側頭葉を内側側頭葉といっています。内側側頭葉は系統発生上古い皮質で、組織学的にも外側側頭葉とは異なっています。

図4 大脳の側面像 |
側頭葉は他の脳葉同様、数え切れないほどたくさんの機能にかかわっていると考えられていますが、外界信号の統合処理に関与し、外界刺激を認識し、過去の記憶と照らし合わせてその意味を判別することが外側側頭葉の主要機能の一つと考えられています。一方、内側側頭葉は他の部位の神経細胞群(内側側頭葉の海馬、扁桃核を含め辺縁系と呼ばれています)とともに記憶に関与し、また、種の保存に必要な情動や自律神経機能を統合する役割も果たしていると考えられています。
側頭葉てんかんとは、側頭葉に発作焦点があり、側頭葉起源のてんかん発作が繰り返し起きる病態をいいます(同様に、発作焦点の部位によって、前頭葉てんかん、頭頂葉てんかん、後頭葉てんかんが区別されます)。当然の事ながら、側頭葉てんかんでは発作時、そして、発作間欠時にも、側頭葉の機能を反映した症状がみられることが予想されます。
内側側頭葉にある海馬、扁桃体といった辺縁系組織は痙攣閾値が低く、発作焦点を形成しやすい組織です。さらに、外側側頭葉に始まったてんかん発射は急速に内側側頭葉に伝播し、内側側頭葉で発作が励起されて、発作がここで遷延し、他の脳葉にも異常放電が拡大していくこともあります。このため、内側側頭葉、とくに辺縁系組織は「てんかん発作のペースメーカー」とさえ呼ばれています。
大脳半球4つの脳葉のうちもっとも大きいのは前頭葉で、脳表の約3分の1を占めます。したがって、もし、てんかん焦点になる可能性がどの脳葉でも同一であれば、面積比からいって、前頭葉てんかんがもっとも多くなるだろうことが予測されます。事実、小児の部分てんかん(症候性もしくは潜因性局在関連てんかん)では、前頭葉てんかんがもっとも多いといわれています。ところが、成人に達すると、側頭葉てんかんが前頭葉てんかんを抜いて部分てんかん、とくに、難治性部分てんかんのトップに躍り出ます。おそらく、それは、辺縁系内側側頭葉のてんかん発作への閾値が低いためだと思われます。このため、成人では、部分てんかん、とくに、難治性部分てんかんといえば側頭葉てんかんというイメージができあがっています。成人てんかんで側頭葉てんかんが何よりも問題とされるのは、こうした理由からです。

図6小児症候性局在関連てんかん発作消失の経時的変化側頭葉てんかんは、前頭葉てんかんに比べ、発作消失率が低く、このことが、成人において側頭葉てんかんが主要な難治てんかんとなる要因の一つと考えられる。 |
側頭葉てんかんの病因としては腫瘍、先天性形成異常、瘢痕組織などさまざまですが、詳細は省きます。ただし、海馬の神経細胞が脱落する側頭葉内側硬化という病態があって、難治性側頭葉てんかんの病因のかなりの部分を占めており、しかも、外科治療によって劇的によくなる、ということは頭の片隅に入れておいてください。
側頭葉てんかんの代表的症状は、「胃からこみ上げてくるような」異常感覚を感じた後、意識が消失、目がうつろとなり、口をもぐもぐさせたり、手に持っているものを弄んだりといった自動症に至る、というものです。そして、ときとして、全身痙攣に至ることもあります。こうした発作症状の移り変わりは、前兆(焦点意識保持発作)から焦点意識減損発作、そして、最終的に焦点起始両側強直間代発作に至る過程を反映しています。前兆としては、先に述べた、上行性上腹部異常感覚以外にも、恐怖感、異常嗅覚、異常味覚、既視感、幻聴、幻視、めまいなどがあります。

一方、側頭葉から始まった焦点意識減損発作によってもたらされる自動症の中には、遁走発作という、駈けだしていってしまうようなものもあります。25歳の時、知人宅のパーティーで起きたというドストエフスキー発作もそうしたものの一つだったかもしれません。奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになり、虚ろな声で「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄ったという、例の発作です。窓台に座ったかれの顔はゆがみ、頭は一方に傾き、身体全体がふるえはじめ、びしょ濡れになるまで冷水をかけられたドストエフスキーは充分意識を回復しないまま通りにかけだしていっています。ただし、これは、前にも言いましたように、発作後自動症だった可能性もありますが、その場合でも、焦点起始両側強直間代発作のあとでは運動機能が失われてぐったりしてしまうことがほとんどで、このような自動症はまれです。
発作のないときにも、側頭葉てんかんでは、さまざまな行動異常、精神神経症状が認められることがあります。行動異常としては多動、衝動的行動、注意散漫、暴力行為などがみられ、精神症状としては記憶力減退、易怒性、統合失調様症状などがあり、また、男性の場合、高率に性的無関心がみられるといわれています。
ガストーが側頭葉てんかんといっている場合、このような発作間欠期の病像を念頭に置いていたと推測されます。
そして、ガストーがこの論文を書いた時点では、側頭葉てんかんのような焦点起始発作を主体とするてんかんは、脳に何らかの問題があるために発症し、てんかんの素因はあまり関係がないと考えられていました。脳に何らかの異常があり、このため、知能障害、精神障害の合併率も高いというのが、てんかん専門家の間では「常識」でした。これに対し、素因性全般性てんかんには遺伝が関与し、大きな異常がない脳に生ずると思われていました。つまり、ドストエフスキーのように、傑作小説をいくつも書き残した高度な知性には側頭葉てんかんよりも素因性全般てんかんのほうがふさわしいというのが当時の支配的仮説だったのです。
当然、ガストーもこの図式の中で論じています。
しかし、焦点起始発作を主体とするてんかんが何らかの脳病変に起因するという説は成人てんかんではともかく、小児てんかんには当てはまらないことが、その後、わかってきました。小児には機能性部分てんかんと呼ばれる、遺伝性が高く、脳の「キズ」とは無関係の焦点起始発作がみられるてんかん症例が相当数いることがわかってきたのです。事実、ガストーもその後、後頭葉発作を特徴とするそうした「良性」小児部分てんかん、遅発性後頭葉てんかん(Gastaut型)を報告しています。焦点起始発作があるからといって脳にやっかいな器質性病変があるとは限らないのです。
家族発生
それでは、つぎに、家族性発生についてみてみましょう。
たしかに、ドストエフスキーの次男アレキセイはてんかん発作重積を疑われる状態で死亡しています。アンナによると、ドストエフスキーはこのアレキセイを溺愛していたようで、自分のてんかんが最愛の次男に遺伝し、死に至らしめたのではないかという自責の念に相当苦しめられたようです。しかし、ドストエフスキーの思いは思いとして、次男にてんかんがあるというだけで、ドストエフスキーのてんかんは家族発症の特発性てんかんであるというのはちょっと乱暴です。アレキセイのてんかん発作重積の原因が脳炎や脳梗塞などの重篤な中枢神経疾患だった可能性もありますし、だいいち、てんかん発症者はアレキセイだけで、次男以外にドストエフスキーにはてんかんの血縁者はいません。てんかんの頻度を考えると、親族にたった1人しかいないのに、ドストエフスキーのてんかんが家族性発症だとはとてもいえません。
また、ドストエフスキーのてんかんが家族発症の素因性特発てんかんだったとしても、だからといってガストーが言うようにドストエフスキーのてんかんが焦点起始発作を主体とするものではなかったということにはなりません。最近、成人においても、家族発症を認める「多様な焦点を示す家族性焦点性てんかん」の存在が知られるようになってきているからです。その中には家族発症性遺伝性側頭葉てんかんも含まれています。家族性発症の側頭葉てんかんにはいろいろな臨床特性のものが報告されていて、12番染色体長腕をはじめとしてさまざまな原因遺伝子座が同定されています。そうした家族性側頭葉てんかんのうち、最初に報告された家系は、発症が10代から若年成人期とされています。もちろん、今となっては証明のしようがありませんが、ドストエフスキーがこのタイプの側頭葉てんかんを有していた可能性だってありうるわけです。
旺盛な性欲
性欲の減退がないことも側頭葉てんかんにしてはおかしい、とガストーは論じています。
たしかに、てんかん発症後もドストエフスキーの性欲が旺盛だったのは事実のようです。46歳でアンナと2度目の結婚をした後、8年間にソフィア、リュボフ(エーメ)、フョオドル、アレキセイと2男2女が生まれていますし、1876年、ドストエフスキー55歳の時のアンナへの手紙の中でも
「だれがお前みたいにわたしをあまやかしてくれるだろう、だれがわたしと一心同体に融け合うだろう?それに、あの点についても私たちのひみつはみんな共通なんだからね。それだもの、どうしてわたしはお前の原子の一つ一つをあがめていつもするようにおまえ全体を飽くことなく接吻せずにいられよう?なにしろお前は、あの点でどんなに素晴らしい女房なのか、自分でも、合点がいかないくらいだ。しかし、帰ってからなにもかも証明してみせる。まあ、わたしが情欲の強い男だとしても(たとえ情欲が強い男であろうとも)それがこれほど飽くことを知らず女性を愛することできるということを、いったいお前は考えないのかね。それはわたしがもう千たびもお前に証明したじゃないか。が、こんど帰ったら、わたしはお前を食べてしまいそうだ」
と、何ともコメントのしようがないことを書いています(この文章のすぐあとに「ねえ、この手紙はだれも読みはしないし、お前もまただれにも見せなどしないからね」という文章が続いていますが、どうも、ドストエフスキーは後世の文学史家の執念深さを見誤ったようです)。
前にも述べたように、たしかに、側頭葉てんかんの患者さんでは性欲減退がよくみられます。しかし、よくみられるといっても、せいぜい側頭葉てんかんの患者さんの3分の1程度です。性欲減退がみられない側頭葉てんかんはいくらでもあります。「情欲が強い」からといって、側頭葉てんかんではないと結論するのは、これも、いささか乱暴です。
てんかんを乗り越えて
これ以外にも、ガストーは、ドストエフスキーが部分てんかんではない理由として、器質性脳疾患を疑わせる症状がみられないこと、睡眠発作が主体であること、つねに痙攣性発作がみられていたことなどを挙げていますが、長くなりますので、これ以上詳しくは述べません。しかし、ヴォスクイールはそうしたことも含め、ドストエフスキーが焦点起始の両側強直間代発作を有していなかった断言することはできないと指摘しています。
ヴォスクイールの論文がでた翌年、ガストーは再びエピレプシア誌にドストエフスキーのてんかんについて再論しています。その論文では素因性全般てんかん説が後退し、ドストエフスキーのてんかんは全般起始発作を伴うてんかんとも焦点起始発作を伴うてんかんともどっちともいえないという曖昧な結論で終わっています。
結論だけみれば、後から書かれた論文の方が医学的には正しいといえるでしょう。
しかし、論文としてみるならば、じつは、最初の論文の方が圧倒的に「魅力的」です。最初の論文は医学論文としては例外的なほど情熱的で、迫力に満ちているからです。アンリ・ガストーという人がてんかん学の世界で敬愛されていた理由が今さらながら感得できる論文です。
医学を含めた自然科学は「正しい」知識が積み重なって発展していきます。そして、正誤だけを指標に判断すれば、後世の人間はどんな凡人であっても自然科学史上の偉人たちをいとも容易に弾劾できます。ガストーの論文も「医学的正しさ」を金科玉条にすれば、あとの方が正しいという、ある意味で当たり前な、つまらない結論に行き着いてしまいます。しかし、ガストーの最初の論文はそういう観点からだけでみるべきではない例外的な医学論文ではないかと私は思っています。
ガストーの最初の論文における真の結論は、じつは「ドストエフスキーの天才は生来のものであり、てんかんゆえにその天性が磨かれたわけではない、てんかんがあったにもかかわらず、才能を発揮したのだ」というものではないかと思われます。素因性全般てんかん説はその結論へ至るためにガストーが必要と信じた条件の一つだったのでしょう。しかし、どうやら、この結論を証明しようとする熱い想いが、論理をやや強引におしすすめることになってしまったようです。そうまでして、このことを証明しようとした裏には、ドストエフスキーとてんかんの関係についての通説をなんとしてでも覆したいというガストーの強い願望がみてとれます。通説とは、もう一度確認しておきますと、
「ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんに罹患していたと推定され、その発作には至福感と恍惚感からなる独特な前兆が先行していた。その特別なてんかん発作はこの傑出したてんかん患者の思想、感情、文学作品に多大な影響を与えたと考えられる。ドストエフスキーはキリストをモデルとした充足感と愛につつまれた世界を熱望しており、その著作には普遍的人類愛が表現されている。一生を通して、毎月、発作がはじまる際、恍惚発作がかれに天国への扉を開いてみせていたことが、おそらく、その一因であろう」
というものです。
こんなことを主張する人間は、ドストエフスキーの生涯とその作品を通観しながら、てんかんの影響というものをドストエフスキー本来の才能によって創造された芸術と区別すらできないのだ、とガストーは弾劾します。「てんかんゆえに」ではない、「てんかんにもかかわらず」才能を発揮したのだ、ドストエフスキーはてんかんに打ち勝ち、てんかんを乗り越えたのだ、というのです。
もっともらしいことを、と思われるかもしれません。
しかし、ガストーが思いつきでこんなことを主張したとは考えられません。むしろ、この言葉は、経験豊かな臨床医としてのガストーの実感を反映しているのではないかと思います。
ガストーという人は、南フランスのマルセーユで長年にわたり膨大な数のてんかん患者を診察し、深い洞察力でてんかんという病をみつめ、てんかんにかんする数多くの記念碑的論文を書いた人です。現在も世界中で使われている国際てんかん分類、てんかん発作分類の基本概念を提唱した人で、現代てんかん学の父と呼んでもいいような人です。そんな人が「思いつき」で「いかにももっともらしいこと」を書くとは、ちょっと、考えにくいのです。
ヴォスクイールに対する論文を書く前にガストーは手紙や手記も含めたドストエフスキーの全著作をすべて読み直したと記しています。これは、ドストエフスキーに加え、ゴッホ、フローベールといったてんかんをもっていたとされる天才的芸術家たちについて講演するための準備だったようですが、全著作を読み直したあともドストエフスキーとてんかんとの関係についてのガストーの信念は揺るがなかったようです。てんかんに罹患しつつもドストエフスキーは天才的芸術をうみだしたが、その天才的芸術はてんかんとは無関係に生まれたという信念です。
そのことをいうために、ガストーがやや強引にドストエフスキー素因性全般てんかん説を言い出した可能性があることについては、上に述べました。素因性全般てんかんであれば、側頭葉てんかんと異なり、知的退行、精神症状を合併することは通常ありません。もちろん、側頭葉てんかんであっても、必ずしも、全例が知的退行や精神異常をきたすわけではありません。しかし、ドストエフスキーのように頻回に発作が起きる側頭葉てんかんではそうした合併症の出現頻度が高くなります。薬で治療しても発作が頻回に起き、知的に荒廃し、異常行動を起こすようになる側頭葉てんかん症例をガストーは数限りなく経験していたはずです。ですから、どうあっても、そんなことが考えられない素因性全般てんかんでなければならなかったのです。
しかし、まさかとは思いますが、ガストーは錯覚に陥っていたのかもしれません。
いうまでもありませんが、ドストエフスキーの時代においては、発作が頻回にみられていたとしても、だから「難治てんかん」だったということにはなりません。当時は、ブロムが一部の限られた地域で使用されるようになっただけで、めぼしい抗てんかん薬はまだなかったことは以前お話したとおりです。抗てんかん薬による治療を受けていなかったのですから、当然、ドストエフスキーのてんかんは「難治てんかん」ということにはなりません。難治てんかんにつきまとうことが多い深刻な退行がみられなくても(記憶力の減退はあったようですが)不思議でも何でもなかったのです。それに、難治てんかんが多いとされている側頭葉てんかんであったとしても、なんの不都合もないのです。
ガストーがドストエフスキーの全著作を読み通したのは、この天才作家のてんかんについて医学的に論考するためだったのでしょう。しかし、ガストーは医学的興味だけでドストエフスキーの全著作を読了することはできなかったのかもしれません。ドストエフスキーの著作に現れる多彩で複雑な世界、世界中の読者を魅了してきたドストエフスキーの文章、それらにガストーは圧倒されたのではないかと思われます。そして、そうした読書体験を、長年の臨床経験と照らし合わせたのでしょう。てんかんが人間にいかなる影響を及ぼすものか、そのさまざまな様相をガストーは数限りなく目撃してきたはずです。そうした臨床経験とドストエフスキーの残した著作を虚心坦懐に引き比べても、確信は揺らがなかったのでしょう。「てんかんゆえに」ではない「てんかんにもかかわらず」なのだ、ドストエフスキーはてんかんを乗り越えたのだ、と。
そして、そのことは、てんかんという「敵」に対するドストエフスキー自身の信念でもありました。この文章のはじめに引用しましたように、1865年12月、「罪と罰」を執筆中、かれは次のようにノートに書き留めています。
「しかし、病気を恥じる必要などない。それに、倒れ病といえども活動を止めることはできないのだ」
てんかん気質
もちろん、てんかんがドストエフスキーになんの影響を及ぼさなかったというわけではありません。ドストエフスキーがてんかんという病に終生悩まされていたことは紛れもない事実で、どうやら、抜群の記憶力も減退したようです。しかし、てんかんがかれの思想や作品に本質的な影響を及ぼしたか否かという疑問に答えるのは容易ではありません。検証は不可能で、推測によってしか議論できません。
ところが、ドストエフスキーという沃野をてんかんという鋤で掘り返してみたいという誘惑を断ち切れない人間が、彼の死後、あとを絶ちませんでした。ガストーが紹介している「恍惚発作がドストエフスキーに天国への扉を開いてみせ、そのことがかれの思想、感情、文学作品に多大な影響を与え、普遍的人類愛の表明に至らせた」という説は、論理の組み立てがあまりに粗雑で、さすがに、いま、これを鵜呑みにし、信じる人は少ないでしょう。しかし、もっと巧妙に、そして、さらにもっともらしく、ドストエフスキーに対するてんかんの「絶対的影響」が論じられることが今でもあります。
その場合、よくもちだされるのが「てんかん気質」です。
てんかん気質というのは、てんかんをもっている人に共通してみられるとされる性格、特徴のことです。てんかんをもつ人間は躁鬱的で、生真面目である一方、性的に歪みがみられ、怒りっぽく、すぐに敵意を剥きだしにし、攻撃的、偏執狂的、感情的な側面があるとされています。また、哲学的、宿命論的で宗教に傾斜しがちであり、強迫的で罪悪感が強いかたわら、説教的になることもあるというのです。さらに、受動的、依存的で、迂遠、粘着質で、延々と文章を書き連ねる書字過多hypergraphiaがみられるという説もあります。
そして、これをドストエフスキーに当てはめてみると、ドストエフスキー本人のみならず、その文章、小説の登場人物、筋立てにもこうした特徴が当てはまると「てんかん気質論者」は主張します。てんかんがドストエフスキーを支配し、ドストエフスキー本人の性格、生活態度、その文章、その作品の登場人物にまで「てんかん的特徴」がしみ込んでいるというのです。
たしかに、ドストエフスキーは「躁鬱的」な側面があったようですし、作家デビューを果たした頃は「怒りっぽく」「すぐに敵意を剥きだしにし」「攻撃的」「偏執狂的」「感情的」だったために文学者仲間から孤立してしまいました。そして、そういった性格は、ある意味で、死の直前まで変わることはなかったようです。また、ドスエフスキーの文章は、同じロシアの文豪チェホフなどにくらべ、簡潔性に欠ける面があります。もちろん、翻訳でしかわからないことですが、ドストエフスキーの文章はくどくどしく、だらだらとどこまでも続き「迂遠」「粘着質」「書字過多」と評されてもいたしかたない面があるように思えます。加えて、その小説やエッセイに「哲学的」「宿命論的」「宗教的」なものが多く含まれていることはご存じのとおりです。さらに、小説の登場人物も、地下室の住人、ラスコールニコフ、スタヴローギン、フョードル・カラマーゾフなど偏執狂的、強迫的、攻撃的人間に事欠きません。ドストエフスキーの小説にはてんかんをもつ人間が現れますが、それ以外の登場人物にも、特有の、共通の性格が刻印されているようにみえます。ドストエフスキー本人も含め、たしかに「ドストエフスキー的世界」は「てんかん気質」に満ち溢れています。
てんかん特有の性格、気質がみられるということは古代ギリシャ時代からいわれてきました。そして、ドストエフスキーが活躍した19世紀半ばには、フランスのてんかん学の大家、モレルが「てんかん気質」を盛んに論じていました。興奮性と易怒性がてんかんを有する人間の際だった特徴だというのです。ちょっとしたことで「てんかん性の怒り」を爆発させ、それが1-2時間続くことがあり、しかも、日に何度も何度も繰り返すことがあるとモレルは書いています。さらに、てんかんを有する人間は宗教的なものに傾斜しやすいとも指摘しています。
その後、てんかん気質論はドイツでも盛んにいわれるようになります。ドイツの精神科医シュナイダーは1933年初版の精神病理学の概説書に「大抵の癲癇患者は時のたつにつれて一定の様式の精神的変化を起こす。変化は知性の領域にも人格の領域にも起こる。迂遠な、杓子定規な、信心に凝った、涙脆い、蔭日向の多い性質、精神的視界の狭窄、饒舌な愚直性、粘着性、自己の状態に対する不可解な多幸性などがかかる状態の性格特徴としてよくみられる。記憶の著しい障碍も、重い癲癇痴呆に陥ったものに見られる」と書いています(クルト・シュナイダー著、西丸四方訳「臨床精神病理学序説」みすず書房)。
しかし、その後、てんかん気質論は一旦下火になります。
なぜかといいますと、てんかんはさまざまな疾患の集まりであって、てんかん発作を(それも、さまざまな発作型の発作を)もっているというだけで、同じ「性格」を共有することなどあり得ないと考えられるようになったからです。もともと、19世紀から20世紀初頭に盛んに論じられたてんかん気質論というのは主として精神病院に入院しているてんかん症例の観察からひきだされたものだったようです。精神病院への入院、隔離を要するようなてんかん患者は、たいてい、ひどいてんかん発作があり、重篤な精神症状を合併していました。てんかん気質論はそうした一部の特殊な患者を対象として組み立てられたものだったのです。しかも、こうした患者たちの「気質」は精神病院という特異な環境に閉じ込められたことによってつくりだされた可能性も考慮する必要があります。てんかん気質は永遠にとらわれの身となったための心理的帰結だと評した研究者もいるくらいです。たしかに、そのような環境下では、興奮性、易怒性がみられるようになっても不思議ではありません。
しかし、20世紀に入ってフェノバルビタール、フェニトインといった抗てんかん薬が登場し、ある程度、てんかん発作が抑制されるようになると、精神病院に監禁されるてんかん患者の数は減り、逆に、自宅から外来に通ってくるてんかん患者が増えます。すると、てんかん気質を有さないてんかん患者が少なくないことにいやでも気づかされます。こうして、「てんかん気質」論は影をひそめました。
ところが、20世紀半ば、一旦下火になった「てんかん気質」論議が再び活発になります。それは、側頭葉てんかん、とくに、先ほど少し触れた、内側側頭葉硬化に起因する側頭葉てんかんが注目されるようになり、このてんかんには紛れもなく特有な性格「内側側頭葉てんかん性格」とでも呼ぶべきものが存在するという報告が相次いだからです。海馬などに問題のある内側側頭葉てんかんでは、てんかん放電が側頭葉を刺激して、さらに側頭葉自らの内部で異常放電を発射させやすくして(キンドリング現象という動物実験で確認されているてんかん放電の加速度的加重現象です)、それが、てんかん発作を起こしやすくするだけでなく、情動も歪めるというのです。そして、1950年代前後にこの仮設を唱えていたアメリカの神経行動学者ノーマン・ゲシュウィンドにちなんで、書字過多、強い宗教へのこだわり、性欲減退 、迂遠、精神的なものへの過度の傾斜がみられる側頭葉てんかんはゲシュウィンド症候群と呼ばれるようになりました。実をいいますと、上に列挙した「てんかん気質」は、この内側側頭葉てんかんに特有とされた「気質」です。ガストーが引用している「ドストエフスキー側頭葉てんかん罹患説」も、この「内側側頭葉てんかん性格」が盛んに議論されていた頃でてきました。そして、「てんかん性格」も含め内側側頭葉てんかんの種々相について精力的に探求した研究者の一人がガストーでした。ゲシュウィンド症候群は、一時期、ガストー・ゲシュウィンド症候群と呼ばれたこともあるぐらいです。「ドストエフスキー側頭葉てんかん説」の形成にみずから関わってきたとかれが言っているのはこのことを指しているようです。ガストーがドストエフスキーのてんかんを側頭葉てんかんではなく素因性全般てんかんと執拗に主張した理由もここにあったわけです。
しかし、やがて「内側側頭葉てんかん性格説」も下火となります。さまざまな研究が行われましたが、内側側頭葉てんかん患者のほとんどが「てんかん気質」を有しているという明確な結果がでなかったからです。いまに至るも「内側側頭葉てんかん」に特有な性格様式があるかどうかにかんしては結論がでていません。
結局のところ、てんかん気質論というのは血液型性格論とたいして変わらない議論だったといえるかもしれません。根拠が薄弱で、言葉の遊びにすぎない報告が少なくなかったのです。てんかん、とくに、内側側頭葉てんかんの人の中に、上にあげたような「てんかん気質」の方はたしかにいます。しかし、そうでない人もたくさんいます。逆に、てんかんをもたない「てんかん気質」の人もたくさんいます。こうして、ガストーが編集に大きくかかわったWHOの「てんかん事典」には「てんかん病因の多様性からみてもてんかん性格あるいはてんかん人格という概念は誤見解に基づく不適切な用語であり、類似用語も含めて使用を避ける」べきであると記されています。ベンソンは現存するてんかん専門家のほとんどはてんかん性格の存在を否定しており、てんかん性格を論じる試みそのものを忌避する学者もいると記していますが、それも当然かもしれません(Benson F & Hermann B Personal Disorder : In Engel J & Pedley A eds. Epilepsy: A comprehensive textbook。pp 2065-9, 1997)。
人間観察の天才
このように「てんかん気質」が存在するかどうかさえ怪しいのですが、ドストエフスキーをてんかん気質で論じる場合、もう一つ考えておくべき問題があります。それは、ドストエフスキーの人生と作品をてんかん気質という一点で呑気に規定してしまっていいのかという疑問です。「てんかん気質論」はドストエフスキーがてんかんというものから逃れられなかったという視点で論じています。しかし、そんな視点がはたして正しいのか、という議論も当然あってしかるべきでしょう。ガストーが主張しているのも、そこです。そして、これは、ドストエフスキーのみならず、てんかんをもつ人すべてについていえることです。「てんかん性格を論じる試みそのものを忌避する学者もいる」とベンソンが書いているのも、そのあたりの事情を反映しています。
しかし、ここでは、ドストエフスキーに限定して考えてみましょう。
てんかん気質論は、一見、ドストエフスキーとその芸術に当てはまるようにみえます。しかし、ドストエフスキーとその作品は、それをすべてはねのけてしまっているという見方も、同時に可能です。
まず、なによりも、ドストエフスキーが自己を含めた人間観察の深さにおいて余人の追従を許さぬ天才だったことを思い起こす必要があります。長年にわたってドストエフスキーを論じた文芸評論家、小林秀雄は同じ文芸評論家の中村光夫らとの対談で次のようにいっています。
小林 ドストエフスキーという作家の感受性というものは、独特のもので、あんな人はめったにないのだが、目がじかに人間にいくんだよ。人間以外にまったく興味を持っていない……美術展覧会評なんてみればよくわかる。絵なんか一つも論じてない。描いてあるものを論じている。だからあれは絵なんてものに全然興味がないんですよ。音楽論というものもないでしょう。僕はチャイコフスキイのことがどこかにあるだろうと思ってずいぶん探した。ありゃしないのだ……
中村 小説家だね。
小林 小説家というものはそれでなきゃいけないんですよ。ああいう人からみればたいていの小説家は気取り屋で、人間に興味をもっていないよ。人間にあるだけの興味をもつということが小説の根本なんだね。
小林秀雄は「天才は努力する才だといわれるが、誤解を招きやすい言葉だ。努力なら凡人でもするからだ」という意味のこともたしかどこかで書いていたはずです。天才と凡人は努力の内容が違うということなのでしょう。たしかに、天才は恐るべき集中力で、魅入られたように、延々と努力を続けるようです。同じ努力といっても、質も量も違い、凡人からみると、努力を発明しているようにさえみえます
小さい頃、電車に乗ると、きまって、走っている電車の中から線路脇の標識の字を目をこらし読みあてる遊びをしていたと元大リーガーのイチローが語っていたことがあります。「そんなつもりはなかったけど、今考えると、動態視力の訓練になっていたかもしれない」とつぶやきながら。
酒を飲みに行って店で漫才のネタを紙片に書き留めていたら、相方に、こんなところでまでそんなことをすることはないだろうと「たけし」はいわれたそうです。しかし、漫才をやっているんだから、四六時中漫才のことを考えていて当たり前だし、どんなところでも、これはというネタがみつかれば、書き留めずにはいられなかったと「たけし」はふり返っています。
あるオーケストラのコンサートマスターを務めるバイオリニストがいっていました。練習、コンサート、レッスンとバイオリンを半日も弾いていると、バイオリンの音を聞くのもイヤになって、その日は絶対にバイオリンを手にしない、と。しかし、ソ連の巨匠バイオリニスト、オイストラッフは、プラハで開かれた音楽祭の期間中、夜、コンサートを終えて知人音楽家の別邸に招待されてやってくると、他の客が夜明け近くまで談笑している間、ずっと上機嫌にバイオリンを弾き続けたそうです。
現代医学は機能障害をきたした脳の病態については、ある程度、説明することができます。しかし、脳機能障害のない人間において能力に差が出る理由をきちんと説明することはできません。天才と凡人の脳は「医学的」には差がありません。ポジトロンCTのような機能画像検査によってさまざまな能力の違いをある程度窺い知ることはできますが、現在のところ、脳病変が何もない人間における能力の差は「誤差範囲」でしかありません。あまりに常識的な説明で申し訳ないのですが、この「誤差範囲」内で大きな差が出るとしたら、1人の人間がある一つの物事にどれだけ集中し、そのことにどれだけ時間を配分できるかによると考えるしかありません。少なくとも、それが、「天才」を成り立たせる条件の一つだと思われます。
ドストエフスキーは人間のあらゆる面を四六時中考え続けた天才だったようです。だからこそ、フロイトの深層心理学出現以前に深層心理を小説のなかで自在に扱うことが出来たのでしょう。ウランゲルは、ドストエフスキーが自然の美に不思議なぐらい関心を示さなかったと証言しています。人間という謎の究明にただひたすら没頭していたためでしょう。人間以外のことはドストエフスキーにとってどうでもいい、ちっぽけなことだったのかもしれません。「偉大な彫刻家のようにドストエフスキーは人間の魂のほんのわずかな曲線にも目をとめ描写した」ともウランゲルは語っています。
前にも申しましたように、ドストエフスキーはシベリア流刑中、自己の過去のすべてを洗いざらい点検し直したといっています。そんな人間ですから、おそらく、てんかんが自分に及ぼすさまざまな影響についても考えていたはずです。
かれが生きていた当時、すでに、てんかん気質といった概念がフランスを中心に一部のてんかん学者の間で話題になっていたことはご説明したとおりです。しかし、おそらく、ドストエフスキーはそれについては何も知らなかったと思われます。ですから、まさか、そのような概念で自分の文学が総括されるとは想像もしていなかったでしょう。しかし、青年期以降、一生を通じ、数ヶ月に一回は必ず襲ってきて「異常な内部の光」で自分の「魂を照らし」だしたてんかん発作です。それが自分にもたらすものについて思いを巡らすことは何度もあったはずです。少なくとも、無意識のうちにでも、てんかんがみずからの文学に及ぼしている影響を感じとっていた可能性はあります。そして、そうしたなかで、小説を構想し、執筆していたのでしょう。いまさら、みずからの作品やその登場人物にてんかん性格があるといわれても驚きはしなかったかもしれません。
「白痴」の主人公はキリストをモデルとした純粋無垢なムイシュキン公爵です。しかし、作品の構想段階では、強烈な情欲を有し、強欲で、自尊心が強く、そのくせ、屈辱の中に快感をみいだす、ムイシュキン公爵とは正反対の異常性格の男が主人公の候補に挙がっていました。ムイシュキン公爵同様、てんかんもちで、しかし、そのために、母親から白痴と蔑まされている人間が想定されていたようです。のちに「カラマーゾフの兄弟」で登場するスメルジャコフのような人物が念頭にあったのかもしれません。しかし、結局、ドストエフスキーは「もっとも美しい人間」キリスト公爵を主人公に据え、この醜悪な人間像を捨てさります。なぜドストエフスキーがそのような選択をしたのかについては、いろいろ憶測がなされているようですが、それはともかくとして、このことは、同じてんかんを有していても「純粋無垢な人間」から「醜悪な人間」までいかなる人間類型もあり得ることをドストエフスキーが知っていたことを示唆しています。てんかんを持つ人間を「てんかん気質」という観点からしかみられない研究者に比べ、医学的にもドストエフスキーのほうが正しいのです。
てんかんからの自由
てんかん医療の歴史にかんする名著「倒れ病」を書いた医学史家のテムキンは、ドストエフスキーが1880年代に西欧諸国で注目を集めるようになったとき、人々は、まず、なによりも、病的世界に否応なく引きずり込むかれの小説の恐るべき吸引力に強い印象を受けたと書いています。そして、おそらく、そのことが端緒となって、ドストエフスキーの小説に人々がてんかんの世界を観ようとするようになったのだろうと推測しています。
「罪と罰」のドイツ語訳がドストエフスキーの死後2年に出版されたのを皮切りとして、10年もたたないうちに彼の主要作品は英語、フランス語など各国語に翻訳されました(日本では「罪と罰」の英語訳からの内田魯庵訳が1892年に発表されています)。ところが、ちょうどこの頃、西欧では天才たちの病気に対する医学的興味が高まっていました。中心人物はイタリアの精神科医で、犯罪学の父とも呼ばれているチェーザレ・ロンブローゾです。13歳で「ローマ興亡史」を書いたという神童でした。成人後は精神科医になり、赴任した精神病院の近くの刑務所で犯罪者を診療する機会があったことがきっかけとなって、19世紀後半、犯罪の病態研究を精力的に行いました。たとえば、犯罪人が嘘をつくと血圧や脈拍が変動することを発見、これは犯罪捜査における嘘発見器の応用につながっています。その一方で、頭蓋骨をはじめとした犯罪者のこと細かな身体計測値をもとに「科学的」に犯罪者の特性を検討し、大著「犯罪者」をものにしました。ただし、その主張というのが、犯罪者は隔世遺伝し、その「生来性犯罪者は、狭き前額と低き頭蓋とを有し、多くの動物と相類せるものが少なくない」(寺田精一. ロンブローゾ犯罪人論 (Kindle の位置No.718-719). futabadou. Kindle 版)といった不思議なもので、この「革命的見解」は当然ながらさまざまな批判にさらされました。しかし、環境ではなく犯罪者そのものの特性に着目した視点が新鮮に映ったのでしょう、「犯罪者」は大評判をとりました。そのロンブローゾが返す刀で書いたのが天才の特性を論じた「天才論」です。ところが、こちらの方も版を重ねるごとにおかしな方向に進みました。かれは、てんかん(もしくはてんかん様症状)がナポレオン、モリエール、ジュリアス・シーザー、ピョートル大帝、マホメット、ヘンデル、スウィフト、フローベール、パウロたち天才に多発しており、てんかんが天才を生むと主張しました。そして、このロンブローゾの仮説において、本人がてんかんに罹患していたことが明白で、その小説にもてんかん患者が登場する、当時話題のドストエフスキーは格好の材料となりました。テムキンが書いている「ドストエフスキーの小説に人々がてんかんの世界を観ようとするようになった」端緒の一つはこの著作だったようです。病気ゆえに天才となったという「天才論」の意外なパラドックスは人気を博し、ご存じのようにいまだにこの考えは根強く残っています。この「てんかん天才説」はてんかんが才能を生み出したといっているわけですから、てんかん気質論とは正反対のようにもみえますが、一人の人間がてんかんに支配されていたという観点は同じです。そして、てんかん天才説は紆余曲折を経て、結局、てんかん気質論へと流れ込んでいきました。しかし、何度も申しているように、てんかんはさまざまな病因から発生し、病因によってはてんかん発症が才能を潰さない場合がいくらでもありえます。てんかんが天才を生むのではなく、てんかんが天才の誕生を阻害しないと考えるほうが自然です。
実際、テムキンは「たしかにドストエフスキーはてんかんだったかもしれないが、その小説はかれの知性、気質、想像力すべてがあわさって生まれでたものだ」と指摘しています。その小説世界には、病気体験に加え、病気以外の個人的体験、そしてかれの創造力が分かちがたく織り混ざっているというのです。「巨大小説群がドストエフスキーという特異なてんかん患者によって創りだされた産物であることは事実だ。しかし、だからといって、ドストエフスキーの世界を単純にてんかんの世界とみなすわけにはいかない」とテムキンはコメントしています。
ムイシュキン公爵が五年ぶりに発作を起こす日のエピソードですが、これについて小林秀雄は「『白痴』を愛読した人なら、恐らく誰でもムイシュキンの発作に伴う錯乱的心理を扱ったこの驚くべき一章を忘れることはできない」と前置きして、これは「心理分析上の鬼才を縦横に発揮した場面」と評しています。このような場面を描いたがゆえにドストエフスキーは「内的独白を語り或いは意識の流れを描く」という「心理的手法の創始者」とみなされるようになったのですが、この一節の描写は「心理小説の驚くべき発達に伍して尚比類ないものを有して」いると小林秀雄は激賞しています。
この場面がドストエフスキーみずからの発作前駆症状体験を反映したものかもしれないことは以前指摘しました。ですから、みようと思えば、ここにドストエフスキーにたいするてんかんの「支配的影響力」をみることができるわけです。しかし、この一節を通読すれば、ドストエフスキーがてんかんに引きずり回されていないことは明らかです。むしろ、自らのてんかん体験を噛み砕き、血肉化し、「心理分析上の鬼才を縦横に発揮した場面」へと結実させています。
いうまでもありませんが、こうした事情は、てんかんに限ったことではありません。
死刑執行劇、監獄、賭博、借金、報われることのない異様な恋愛関係の数々。てんかん以外のこうした苦難の体験をドストエフスキーは自らの創作の中に昇華させていきました。たとえば、借金地獄がかれの小説を支配しているという人はいないでしょう。まったく逆で、かれの恐るべき咀嚼力によって借金経験が噛み砕かれ、消化され、「罪と罰」にみられるように、悪夢に似たかれの小説にリアリティーを与えています。また、賭博にあれほど狂いながら、小説「賭博者」では呵責なきまでに賭博者の情動を抉りだしています。賭博が小説を支配しているとは、やはり、だれも言わないでしょう。
てんかんについても同じことがいえます。それは、発作前駆症状を描いた一章だけでも、充分に読み取ることができます。ドストエフスキーが生み出したものは、てんかん気質概念やてんかん天才論などを弾き飛ばしてしまっているといってもいいでしょう。
ガストーが指摘しているように、たしかに、ドストエフスキーはてんかんを乗り越えたのです。ドストエフスキー本人が宣言しているように「倒れ病といえども活動を止めることはできな」かったのです。
そして、ドストエフスキーは、そのように乗り越えていくことが「自由」を得る唯一の道だと考えていたようです。
「作家の日記」の中で、ドストエフスキーは次のように書き記します。
「現今の世態においては、自由を放縦の意味に解している。けれど、真の自由はただおのれ自身と、自己の意志の克服にのみ存するのであって、かくすれば、ついには広い精神的状態に達して、いついかなる瞬間にも、おのれ自身にたいして真の主人公となり得るのである。意欲の放縦は、単におのれを奴隷状態に導くにすぎない」(「作家の日記」1877年2月 第2章 4 問題のロシア的解決)
この信念はどうやらキリスト教からドストエフスキーが生み育てたものだったようです。同じ「作家の日記」の中でかれは次のように説きます。
「『社会組織がこんなに忌まわしくできている以上、手に刃をもたないでは、そこから抜け出すことはできない』これこそ環境説の唱えるところで、キリスト教とは正反対である。キリスト教は環境の圧迫を十分に認めて、罪人に憐憫を声明しながら、しかも、環境に対する戦いを人間の道徳的義務とする、そして、どの辺で環境がおわり、どこから義務が始まるかという境界を人間に示すのである。人間に義務責任を付与しながらキリスト教はそれによって人間の自由をも認めているのである」(「作家の日記」1873年 2 環境)。もちろん、この簡潔な認識に到達するまでにドストエフスキーはずいぶん思い悩み、その間、思想上のさまざまな紆余曲折もあったにちがいありません。そのことは、たとえば、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の章などにも窺うことができます。処刑劇、流刑、賭博狂い、借金地獄、繰り返されるてんかん発作で右往左往する中、ついにつかみ取った宗教的認識だったのでしょう。
しかし、この認識を手にすることによって、ドストエフスキーはてんかんからも自由をえたようです。てんかんに関しても「おのれ自身にたいして真の主人公」になりえたのです。万が一、薬物治療によっててんかん発作がなくなることがあったとしても、もしかしたら、ドストエフスキーにとって、それはてんかんからの真の自由を意味しなかったかもしれません。てんかん発作が薬によって消失しても、それは、本人の努力とは無関係に起きた一現象にすぎません。自由とは何の関係もありません。ある時点で、ドストエフスキーが自らのてんかんを不治の病と見定めるようになったことは以前述べました。しかし、そのことは、かれがてんかんに対して白旗を掲げたことを意味しませんでした。発作前駆症状を描いた一章をふくめ、ドストエフスキーが小説のさまざまな場面においててんかんという病を見事な表現に昇華させていることをみても、それは明らかでしょう。
参考資料
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- イーグルトン著 大橋洋一訳 「イデオロギーとは何か」 平凡社ライブラリー
- 今井宏著 「世界の歴史13 絶対君主の時代」 河出書房新社
- 江川卓著 「謎解き『白痴』」 新潮選書
- 江川卓著 「ドストエフスキー」 岩波新書
- 大野真弓責任編集 「世界の歴史8 絶対君主と人民」 中公文庫
- E・H・カー著 松村達雄訳 「ドストエフスキー」 筑摩叢書
- 加賀乙彦著 「ドストエフスキイ」 中公文庫
- 亀山郁夫著 「ドストエフスキー 謎とちから」 文春新書
- 亀山郁夫著 「ドストエフスキー 黒い言葉」 集英社新書
- 栗生沢猛夫 「図説 ロシアの歴史」 河出書房新社
- クルト・シュナイダー著、西丸四方訳 「臨床精神病理学序説」 みすず書房
- 小沼文彦 訳「ドストエフスキー 未公刊ノート」 筑摩書房
- 小林秀雄著 「ドストエフスキイの生活」 新潮文庫
- 小林秀雄対談集III 「文学と人生について」 文春文庫
- 小林秀雄 全作品5「罪と罰について」 新潮社
- コンスタンチン・モチューリスキー著 松下裕・松下恭子訳 「評伝ドストエフスキー」 筑摩書房
- 司馬遼太郎 「ロシアについて 北方の原型」 文藝春秋
- 寺田精一(1911) 「ロンブローゾ 犯罪人論」 双葉堂
- ドリーニン編 水野忠夫訳 「ドストエフスキー 同時代人の回想」 河出書房新社
- ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」 みすず書房
- ドストエフスキー著 米川正夫訳 ドストエフスキー全集1~20, 別巻 河出書房新社 (1969)
- 中村健之介著 「永遠のドストエフスキー 病という才能」 中公新書
- フロイト 中山元訳 「ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの」 光文社古典新訳文庫 光文社 (2013)
- モートン・マイヤーズ 小林力訳「セレンディピティと近代医学:独奏、偶然、発見の100年」 中央公論新社
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