ジュリアス・シーザー


内容

シーザーの生涯

 シーザーとドストエフスキーの相違点と類似点

 文筆家

 借金

 カティリーナ事件

 「帝王切開」で生まれた?

 混乱のローマ

 独裁への道

シーザーのてんかん

 言い伝えられた発作

 鑑別診断

 てんかん類型

 高齢発症てんかん

 てんかんの影響?

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」

参考資料・引用文献

写真1 2008年5月15日仏アルルのローヌ河の川底から発見されたシーザーの胸像。
 シーザー暗殺の2年前、紀元前46年の作と推定されており、 シーザー晩年の面影を伝えていると考えられている。高さ約40cm。http://blog.livedoor.jp/dead_moon_rising/archives/166563.html

キャシアス
 だが、待ってくれ、ちょっと。シーザーが気を失っただと?
キャスカ
 広場の真ん中でぶっ倒れ、口からは泡を吹き、ものなど一言もいえませんでした。
ブルータス
 ありそうなこと、あの男は癲癇の持病持ちだからな。
キャシアス
 いや、それはシーザーの持病じゃない。
 君、そして僕、そしてまたキャスカ、僕たちみんなの病気だよ。
キャスカ
 あなたの仰ることはよくわかりませんが、シーザーのぶっ倒れたことだけは確かな事実です……
ブルータス
 息を吹き返したとき、奴はなんと言った?
キャスカ
 ……もし何か自分に失言や過ちがあったのなら、それはみんなこの病気のせい、諸君、 ぜひそう考えて欲しいと、こうなんですからね。


シーザーの生涯

シーザーとドストエフスキーの相違点と類似点

 次にシーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル(BC100-BC44)とてんかんについてお話します。
 シーザーはドストエフスキーといろんな意味で対照的な人です。もちろん、市井の1小説家と古代ローマ帝国の初代帝王では違っていて当たり前ですが、そうはいっても、同じてんかんという病に悩まされながら、これほどまでに違う人生を歩むものかと、あらためて驚かされます。
 モンタネッリによればシーザーは「完全無欠の俗物」でした(モンタネッリ 「ローマの歴史」)。
 若禿を気に病み、乏しくなった髪の毛をいつも頭のてっぺんから額の方へ撫でおろしていました(スエトリニウス 「ローマ皇帝伝」)。古代ローマの事実上の独裁者となってからも、独裁官特権のうちもっとも活用したのは月桂冠着用権で、これも、禿を隠すためだったといいます。けれど、若禿を気に病むこの俗物は、女性にもて、部下の兵士たちはかれのことを「薬罐頭の女たらし」と呼んでいました。凱旋式では「市民よ、女房を隠せ、禿の女たらしが帰ってきたぞ」と兵士が触れ歩きました。そして、それを聞いてまっさきに吹き出すのが司令官のシーザーでした(モンタネッリ)。美男子というわけでもないのに、多くの貴婦人が列をなしてかれに誘惑されたがり、クレオパトラを筆頭に、大借金を引き受けてくれていた富豪クラッススの妻、大将軍ポンペイウスの妻、政敵、小カトーの異母妹セルヴィーリアなど相当数の女性と浮き名を流しています。しかも、それほどの複雑な女性関係がありながら、妻も愛人たちも誰1人としてシーザーを恨んではいなかったようで、塩野七生女史によれば、歴代の著名な男たちを羨ましがらせ、悔しがらせています(塩野七生「ローマ人の物語ユリウス・カエサル」)。きわめて人間的な魅力に富んだ人物だったようで、歴史上の人気という点からみると、日本でいえば、坂本龍馬みたいな存在かもしれません。たとえば、ナポレオンなどは、みずからをシーザーに見立て、髪型まで真似ていました(前髪を喪失する前のシーザーの髪型かどうかはわかりませんが)。粋で、物わかりがよく、偏見がなく、ユーモアに富み、当意即妙の警句と毒舌を巧みに操る才にたけており、自分の欠点を大目にみてもらった代わりに、他人の悪徳にも寛容でした(モンタネッリ)。

写真2 「執務室のナポレオン」 ダヴィド 1820年 アマゾン

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 女性にもてただけでなく、兵士にも人気があったことは、先ほどの禿の逸話からも窺えます。常勝の将軍ですし、兵士に気前よく報酬を払ったといわれていますから、人気があって当然かもしれませんが、しかし、人気の秘密はそれだけではなかったようです。ローマへの反逆者とされるおそれのある中、内戦覚悟でシーザーが「賽は投げられたのだ!」と叫んで「ルビコン川」をわたったときも、兵士たちはほとんど全員、シーザーにつき従っています。多くの兵がとりあえずの無報酬を覚悟の上でした。貯金をおろし、自前で騎兵を雇った隊長さえいました。度量の広い指揮官として、また、ひとりの人間として、よほど魅力があったのでしょう。
 そういった点で、陰気で、人付き合いが悪く、自己の思想に固執し、意見が合わなければ人を罵倒することもまれではなかったドストエフスキーとは、大違いです。

文筆家

 ただし、共通点もあります。
 まず、ふたりとも卓越した文章を残しました。
 ドストエフスキーに関しては、この点、異論のないところでしょうが、シーザーに関しては、ちょっと驚かれる方がみえるかもしれません。しかし、シーザーは若い頃、文学を志していたのではないかともいわれていて、「ガリア戦記」「内乱記」といった歴史に残る著作を書き残しています。また、それ以外にも青年時代から詩を含め気品に満ちた文章をいくつも書いたと伝えられています。古代ローマの独裁者の著作ですから、代筆では、と疑われる方もみえるかもしれません。しかし、書かれたものの多くは、シーザーが独裁者になる前のものですし、彼自身が書いたことを証明してくれる人物もいます。現在に至るまでその文章がラテン語のお手本とされているキケロ(BC106-BC43)です。かれはシーザーの同時代人で、弁論家、政治家としてシーザーと敵対することもあった人物ですが、「ガリア戦記」の文章を「裸体で純粋であり、人間が身につける衣服にも似たレトリックを、完全に脱ぎ捨てたところに生まれる魅力にあふれている」(塩野七生訳)と評しています。また、コルネリウス・ネポスに宛てた私信の中でキケロは「シーザーよりも美しい言葉、あるいはより洗練された言葉を駆使できる人がいるだろうか」と書いています。キケロはシーザーと手紙のやりとりもしていますから、この評はシーザーみずからが書いた文章を前提にしていっていることは間違いないようです。
 ただし、シーザーの文章は人間心理を掘り下げる複雑でうねるようなドストエフスキーの文章とは対照的です。「レトリックを完全に脱ぎ捨てて」とキケロもいっていますが、シーザーの文章は簡潔、明晰、洗練されたエレガンス(塩野七生)と評されています。

借金

 もう一つ、ドストエフスキーと似ているのは、ある時期まで、借金漬けだったことです。
 しかし、借金の内容はかなり違います。
 ドストエフスキーの借金は、バケツの底が抜けたような浪費、兄の残した借金の肩代わり、賭博狂いによるものでした。
 これに対し、シーザーの借金は、主として、政治活動のためでした。
 当時のローマは共和制で、執政官、財務官、造営官といった高級官は選挙で選ばれていました。しかし、この選挙、金で票が買えたのです。選挙に絡む買収は日常茶飯事で、そのことに当時のローマ人は政治倫理的疑問をあまり感じていませんでした(もっとも、中には、シーザーの天敵ともいえる小カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(BC95-46))のような正直者もいて、そういう謹厳実直で清廉潔白な人間は、執政官のような最高権力まで到達することができませんでした。これに対し「完全無欠の俗物」シーザーは悪びれることなく大っぴらに人々を買収、もちろん、執政官にもなっています)。しかも、お金をばらまいて官職についても、官職によって収入が得られるわけではありません。それどころか、官職についている間も、選挙民の歓心を買うため、さらにお金をばらまく必要がありました。たとえば、造営官になったとき、シーザーは国の予算に自腹を切って予算をつぎ足し、祭りや剣闘士競技をやたら主催しました。これは、大好評で、民衆はシーザーに新たな官職や栄誉を探してやらねばと考えるようになりました(「カエサル」長谷川博隆)。
 こういうわけで、よほどの金持ちでないと、高級官職にそう易々とはつけません。しかし、名門とはいえ貧乏貴族のシーザーにそれだけの金はありません。そこで、借金でまかなったのです。
 もっとも、シーザーは女性への贈り物にも金に糸目をつけず、これも借金をふくらませる要因となっていたようです。
 借金に対する態度もドストエフスキーとは違っていました。
 ドストエフスキーは借金を始終苦にし、借金から逃げ回っていました。
「……小生は勝運の誘惑に抵抗できなかったのです。もし最初に予定どおり十ルイドル負けてしまったら、小生はすぐ何もかも捨てて、出発していたでしょう。ところが、四千フランの儲けが小生を破滅させてしまいました!もっと勝って、一切の(借金)訴訟騒ぎから足を洗って、自分を始め身内の一同、兄嫁やパーシャその他を、一時なりとも保証したいという誘惑に、抗することができなかったのです……」(ドストエフスキー「書簡」米川正夫訳)
ドストエフスキーの書簡集を読んでいると、こういった類の借金への愚痴、言い訳、呪詛が至る所に見つかります。借金に対する、まあ、常識的な反応といえるでしょう。
 ところが、シーザーは借金を苦にせず、平然としていたようです。
 スペイン属州に赴任することになった際も、借金を踏み倒されることをおそれた債権者たちが家に押し寄せ、スペインへ出立できなくなっていますが、ドストエフスキーのように愚痴った形跡はありません。結局、富豪クラッススから金を借りて(というより、それまでもクラッススから多額の借金をしていたので、さらに借金を増やして)なんとか、スペインへ出発しています。これ以前に、シーザーがクラッススの妻を「ものにしていたのはもちろんである」とモンタネッリは書いています。しかし、クラッススが不倫妻の口利きで間男の借金の肩代わりをしてやったのかどうか、よくわかりません。塩野七生は、借金が巨額すぎて、クラッススはシーザーを破綻させるわけにはいかなかったのではないかと推測しています。最近の例でいえば、サブプライム恐慌の際、巨大負債を抱えたAIGをアメリカ政府が破産させるわけにはいかなかったのと同じような事情でしょうか。

カティリーナ事件

 現代の日本や19世紀のロシアと違い、古代ローマにおいて借金は(とくにシーザーのような貴族にとっては)気に病むほどのものではなかったのではないかと思われるかもしれません。
 しかし、古代ローマでも、借金を苦に病む貴族はいました。
 シーザーと同時代、借金を苦に病んだカティリーナという馬鹿真面目な貧乏貴族が、政府転覆を企てたことがあります。きっかけは、元老院の妨害によって執政官選挙に3回も落選したことでした。元老院が選挙妨害したのは、カティリーナがあらゆる借金の棒引きを選挙公約に掲げていたからです。
 このカティリーナのもとに借金で首が回らなくなったさまざまな人間が集まり、政府転覆を企てました。陰謀グループの中には、トスカーナの地に植民したものの、農地経営がうまくいかず、借金を重ねたあげく土地を失ってしまった元兵士の一団も含まれていました。計画が実行に移されたら、ローマが内戦に引きずり込まれるおそれもあったのです。
 ただ、この陰謀計画、ずいぶん杜撰なものだったようです。首謀者グループの1人が陰謀計画を愛人に喋り、ついで、この愛人が当時の執政官キケロに密告、元老院の知るところとなります。元老院はカティリーナ以下の首謀者を死刑に処すことを決定、反乱軍はピストイア近郊で殲滅されます。
 ちなみに、このとき、シーザーは38歳。カティリーナ以上の借金王として知られていましたし、陰謀グループの中にはカティリーナ以外にも元老院議員がいるという噂が流れていました。そのうえ、首謀者グループを極刑に処すべきとの意見が元老院の大勢を占める中で、裁判にかけることもなく元老院議員を死刑に処することにシーザーは反対していました。このため、かれは陰謀グループの一員ではないかと疑われます。
 とくに政敵小カトーはシーザー追求の急先鋒で、元老院におけるシーザーの言動に逐一目を光らせていました。
 すると、案の定、シーザーが怪しい動きをみせました。
 元老院でカティリーナの陰謀についての重大な論議がなされている最中、シーザーがこっそり手紙を書き、それを奴隷に手渡したのです。奴隷は議場をあとにし、しばらくすると、戻ってきました。そして、一通の手紙をシーザーに渡しました。ちょうどカティリーナの弾劾演説をしていた小カトーは、これを見逃しませんでした。シーザーが外部のカティリーナ一味と連絡を取っていると確信、議場一杯に響く声でその疑念を表明し、シーザーにその手紙の内容を読み上げるよう迫りました。しかし、シーザーは自分で読もうとせず、その手紙を小カトーに手渡しました。そこで、シーザーの罪行を白日の下にさらすべく小カトーは勢い込んで手紙を読み始めました。 
 小カトーは呆然とします。
 手紙は、小カトーの異母妹セルヴィーリアがシーザーへの思いを綿々とつづった恋文だったのです。セルヴィーリアはのちにシーザーを暗殺することになる暗殺団の一員、ブルータスの母親で、シーザーの愛人であることは元老院議員の間で周知の事実でした。重要な会議の最中、シーザーは不倫相手にラブレターを書いていたのです。小カトーは赤面し、「しまっておけ、酔っぱらいめ!」と叫んでシーザーに手紙を投げ返しました。議場は爆笑に包まれます。これによって、シーザーの嫌疑は晴れました(プルターク英雄伝「小カトー」)。

「帝王切開」で生まれた?

 ところで、医学関係では、シーザーはてんかんよりもむしろ帝王切開で有名かもしれません。
 帝王切開は英語でCaesarean section と書きます。あとのほうのsectionは切開を意味しますが、前のCaesarはシーザーのことだとされています。シーザーが帝王切開で生まれたので、子宮を切り開いての出産がCaesarean sectionと呼ばれるようになったというのです。そして、シーザーがローマ帝国の初代帝王だったということで、日本語では帝王切開と訳されました。
 シーザーの帝王切開出生伝説は中世ヨーロッパでいわれはじめたようです。誰が言い始めたのか、いまひとつよくわかりません。しかし、いずれにしても、ちょっと信じがたい伝説です。というのは、シーザーの母親アウレリアは、学者一家コッタ家からシーザー家に嫁いできた賢母で、シーザーが成人してからも、よき相談相手だったとされているからです。スエトニウスによればアウレリアが死んだのはガリア戦役の最中ということですから、シーザー40代のことです。当時の医療水準から考えて、子宮を切り開くようなことをして母体が無事だったとは考えられません。ですから、おそらく、シーザーは普通に出産したものと思われます。
 帝王切開(sectio caesarea)のラテン語表記のうちcaesareaは元来、「切る」という意味のcaedereから派生した言葉だそうです。そうすると、sectioも「切開」という意味ですから、帝王切開(sectio caesarea)という語は、単に「切開」という意味の言葉を2つ並べた重複語にすぎないとも考えられます。ところが、ドイツでcaesareaという言葉がKaiser(帝王)と誤訳され、帝王切開と呼ばれるようになったのだという説もあります。
 また、シーザーが生まれる100年前にスペインを征服したシーザー家のスキピオ・コルネリウス・アフリカヌスこそが帝王切開で生まれたのだともいわれています。それがどこかで間違って言い伝えられ、ジュリアス・シーザーが帝王切開で生まれたということになったというのです。
 いずれにしても、シーザーが帝王(シーザー)切開で生まれてきた可能性は低いようです。

混乱のローマ

 シーザーが生まれたのは紀元前100年です(紀元前102年誕生説もあるようです)。
 かれが生まれた当時、ローマはさまざまな矛盾を抱え、激動の時代を迎えていました。
 イタリア半島の1都市国家として出発したローマは、カルタゴとの戦いに勝利したのち、スペイン、ギリシャ、小アジア、北アフリカを併合、シーザーが成人する頃にはシリアも征服して、地中海周辺地域をほぼすべて支配するようになっていました。しかし、それほどの大国家となっても、政治体制は都市国家時代のものを継承していました。
 共和制ローマでは民会、政務官、元老院を3つの柱として政治が行なわれていました。緊急時、期限を切って元老院が1人の人間に権力を委嘱することがまれにはありましたが、平時は独裁者はおらず、この「民主主義」的共和制がローマ市民の誇りでした。政務官としては、財務官、造営官、法務官、監察官がありますが、すべて定員は2名以上の複数制、任期も監察官を除いては1年です。一方、平民の利益を代表する護民官も2名いて、これは民会で選出されました。そして、頂点にたつ執政官も2名で、やはり、任期は一年、ローマでは年号をこの2名の執政官の名前であらわしていました。たとえば、シーザーが執政官だった紀元前59年は、もう1人の執政官はビブルスでした。ですから、「ビブルスとシーザーの年」という年号がつき、年代記にも「ビブルスとシーザーの年にポンペイウスの東方政策が承認された」などと記載されるわけです。もっとも、ビブルスは元老院保守派が平民派のシーザーに対抗させるため執政官に仕立てた傀儡で、クラッスス(BC115-BC53)、ポンペイウス(BC106-BC48)とともに組んだ「三頭政治」を後ろ盾とするシーザーに対抗することなどできない凡庸な人物でした。ことごとくシーザーに出し抜かれ、それに耐えかね、ビブルスは家に閉じこもって、まったく登庁しなくなります。しかたがないので、この年は「ジュリアスとシーザーの年」と年代記には記されたそうです。 
 さて、このような「民主的」政治体制は、ローマが1都市国家である間はうまく機能していましたが、多くの属領を有する征服国家となるに従い、ほころびがでてきます。
 征服の過程で大量の金が流れ込み、同じローマ市民の間に貧富の差が拡大、「持てるものと持たざるもの」が互いに対立するようになったのです。
 うち続く征服戦において、兵役を課せられた農民たちは充分な農地の手入れができず、自農地の土地は荒れ、離農する者がでてきました。一方、征服戦で運良く富の分け前に与った一部の金持ちは、土地を買い占め、大々的な農業経営を行いました。これに、中堅農民は太刀打ちできません。ローマ軍に多数の兵士を供給していた中堅農民層が崩壊、しだいに志願兵に頼らざるをえなくなります。徴兵制度における兵士は、税金を免除される代わりに、武器などを自前で用意して出兵、「祖国を守る」意気に燃えていました。一方、志願兵は給料で雇われた職業軍人で、国ではなく給料を払ってくれる司令官に忠誠心が向かいがちです。こうして、軍を支配する人間が圧倒的な力をもつようになります。
 征服戦によって金とともに大量の奴隷もローマに供給されました。この奴隷が農業にも製造業にも使われ、いよいよ、中堅農民は行き場がなくなり、ローマの無産階級に成り下がっていきます。このように、ローマの農業は投機資本と奴隷によって運営されるようになり、ローマ共和制の支柱が虫食いだらけになっていきました。
 しかも、民主制といいながら、執政官などのローマの高官、そして、元老院は貴族や一部金持ち(騎士階級)の独占物でした。前にも述べたように、役職は無報酬の上、高官になるには金がいりましたから、金と家柄が頼り、よほどの能力と幸運がなければ平民が役職に就く機会はありません。しかし、一旦、高官になれたらしめたもの、役職をつとめたあと属州に派遣されれば、属州の管理者として莫大な富の獲得が約束されていました。一方、そうした幸運にあずかれない大多数の平民は貧窮したまま取り残され、政治的にも不遇です。このようにして、平民派が貴族階級を中心とする保守派と対立抗争するようになりました。
 征服によって膨大な金が入るようになると、国家財政事務も複雑になっていきます。当然、専任の官僚が必要になります。しかし、高官はすべて複数制で、任期はほとんどが一年。とても、複雑な事務を掌握できませんし、決定もできません。結局、高官経験者の終身議員によって構成される元老院が行政機能を統括せざるをえなくなります。さらに、カルタゴとの戦い以降、最終決定権も元老院に移行、司法機能も加わり、この「助言機関」に権力が集中するようになります。したがって、時代の変化に対応して改革する責務は元老院にありました。しかし、ここで「民主的」共和制は弱点をさらけだします。集団指導性のもとでは、重大なことがなにひとつ決定できなかったのです。結局、突出した人物が現れて改革を試みるようになりました。
 しかし、共和制を旗印に掲げる元老院は一人で何ごとも仕切るような独裁者を許容できません。改革者たちは次から次へと元老院によって潰されました。そして、再び危機に見舞われ、こんどは軍の力を背景とした人間が絶対的権力を行使して一時的にローマの混乱を押さえこみます。しかし、元老院は、共和制護持という旗印を楯に、しかし、実際には、嫉妬とねたみと既得権益護持のために、功ある人間を認めようとしませんでした。
 混乱は、まず、奴隷の反乱で始まります。前196年、エトルリアで最初の奴隷反乱事件が勃発、その後、各所で同様の事態が繰り返されました。前139年のシチリアでの反乱では7万の奴隷が蜂起してシチリア島を制圧、ローマは鎮圧に6年を要します。この間、奴隷たちによって住民が虐殺され、暴動鎮定後には反乱奴隷たちの磔柱が延々と並ぶことになりました。
 ついで、グラックス兄弟が奴隷制度、人口の都市偏重、軍紀頽廃への対策として農地改革を引っ提げて現れます。まず、兄のティベリウス・グラックス(BC163-133)が護民官となって土地改革の農地法を提案しました。しかし、やり方があまりに過激と仲間たちからも見はなされ、元老院議員に撲殺されます。約10年後、兄の意志を継いだガイウス・グラックス(BC154-121)が護民官として兄の改革を進めようとします。しかし、これも、ガイウスに同調する人間が過激な行動にでたことで元老院に追いつめられ、自殺します。
 次に登場したのがマリウス(BC157-86)です。平民出身のマリウスは、有能な軍人で、とくに、アフリカのヌミディアの王ユグルタの反乱(BC111-105)を迅速に平定して、一躍名を挙げます。この功績から、平民出身としては異例ですが、執政官に、それも、7回も選出されます。執政官就任中、ガリア人が反乱を起こすと、ローマの徴兵制を見限っていたマリウスは志願兵制を採用、ガリア人を蹴散らします。こうして、彼はまさしく英雄となりました。志願兵制度によって失業者を軍に「就職させ」、貧しい平民の徴兵免除を提言したということで、平民の絶大な支持を得ました。しかし、このことが、逆に、マリウスに暗い影を落とすことになります。マリウスの絶大な人気を後ろ盾に平民派の連中がわが物顔で振る舞い、勢い余って、執政官選挙に出馬した保守派候補を殺してしまったのです。平民派の多くの人間が処罰される中、かれらをかばえなかったマリウスは平民たちから裏切り者呼ばわりされます。軍人としては有能でしたが、マリウスには政治家としてのセンスがあまりなかったようです。失意のマリウスは引退します。しかし、その後、イタリア半島の諸都市がローマ市民権を求めて反乱、マリウスが呼び戻されます。マリウスは躊躇せず、志願兵からなる大軍を指揮して半島を殺戮と劫掠の嵐の中に投げ入れます。結局、死者30万人をだしてイタリア半島は鎮圧されます。
 ここで、マリウスの部下だったスラ(BC138-78)が表舞台に現れます。スラは貧乏貴族の出身で、元々は、マリウスの部下でした。天才的軍人で、ユグルタの反乱においてもガリア人との戦いにおいても大活躍しています。しかも、マリウスと違い、政治的能力も抜きんでていて、その点では、シーザーとよく似た傑物でした。
 スラは執政官就任後、かつての上司のマリウスと激しく対立するようになります。執政官退任後は小アジア遠征軍司令官となりました。ところが、マリウスと平民派によって司令官の座を罷免されてしまいます。これにたいし、元老院保守派の支持をえたスラは小アジア遠征軍を率いてローマに進軍、マリウスをアフリカに追放してしまいます。平民派マリウスを追い払ったスラは独裁者として復古を宣言、民会の権限を縮小し、元老院の権限を強化します。そして、その後、小アジアに出発しました。
 しかし、スラの留守中に平民派と保守派が激突、またもや、マリウスがアフリカから復帰します。復讐の念に燃えるマリウスは多数の保守派元老院議員を殺戮、ローマは無政府状態に陥り、路上には屍体が散乱します。そんな状態が1年も続いた後、マリウスが死去、スラが舞い戻ってきます。
 スラは多数の平民派を処刑、逃亡した政治犯にも懸賞金をかけました。死刑を宣告された人物の中にはマリウスの甥、シーザーも入っていました。スラは「シーザーの中には100人のマリウスがいる」と呟いたそうですから、シーザーをかなりの危険人物とみていたようです。しかし、知人の取りなしで、シーザーは何とか死刑を免れます。ただし、条件がありました。シーザーは平民派としてマリウスとともに執政官の職にあったキンナの娘コルネリアと結婚していましたが、助命するかわりに、コルネリアとの離婚をスラはシーザーに命じたのです。ところが、シーザーはこれを拒否。結局、命からがら国外に脱出し、亡命生活を送ることになります。
 スラの死後、こんどはスペインで反乱が起き、ポンペイウスが平定します。ポンペイウスはスラが小アジアからローマに舞い戻ってきた際、自費で軍団を組織してスラの下に馳せ参じた裕福なブルジョア出身の人物でした。ついで、こんどは、再び、イタリアで大規模な奴隷の反乱が起きます。これに対して、やはり、かつてのスラの部下で大富豪のクラッススがローマ軍を指揮して平定、再び、反乱奴隷たちの磔柱が延々と並びました。そして、この2人がのちにシーザーと組んで3頭政治をおこなうことになります。
 このように、急速に版図を広げていく大国家を運営するにあたって、ローマ共和制はきちんと機能せず、血なまぐさい殺戮が年中行事のようになっていました。集団指導による「民主制」は混乱を制御できなかったのです。最高権力者の執政官からして、任期がたったの1年、それも、複数制で、大国家を長期的展望に立って運営するなど望むべくもありません。これに対して、民会、元老院も、自分たちを選出する母体の利益に引っ張られ、国家のあるべき姿ではなく、おのが集団のあるべき姿を追求し、筋道の通った政策をうちだせません。これは、たとえば、古代ギリシャの都市国家が歩んだのと同じ道でした。アテネなどの古代ギリシャ都市国家は最終的に「内輪もめに」に終始して、没落の道を歩んでいきました。
 古代にあって、これを解決する方法は、どうやら、一つしかなかったようです。隣のオリエント文明の歴代帝国において有効性が実証されてきた政治制度の採用です。すなわち、実務にたけた官僚群とそれを束ねる専制君主による独裁制です。
 「完全無欠の俗物」である怪人物シーザーは、この過渡期にあって、ローマ共和制を見限り、自身が事実上の初代専制君主となります。以後、ローマ「共和国」はローマ「帝国」に姿を変えて300年にわたる「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)を実現することになります。しかし、シーザー自身は、道半ばで、ブルータスたちに共和制破壊者と断罪され、暗殺されます。

写真3 ヴィンチェンツォ・カムッチーニ 「シーザー暗殺」 (1798) ウィキペディア
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Vincenzo_Camuccini_-_La_morte_di_Cesare.jpg

独裁への道

 20代の頃、海賊につかまったものの、身代金を払って解放され、自由の身になるや、すぐ、船団を雇い、海賊たちを捕らえ、縛り首にしたなどという痛快冒険譚がいくつもありますが、ここでは若い頃の話は割愛します。
 シーザーがてんかんを発症したのは50代と遅いので、かれがローマ政治を左右するようになった40歳のあたりからの生涯を概観してみたいと思います。
 紀元前60年、40歳の時、シーザーは元老院の仕打ちに不満のあった大将軍ポンペイウス、大富豪クラッススと手を結んで、執政官に当選します。後世、3頭政治とよばれているものです。シーザーはポンペイウスとクラッススの望みを叶える法案を通過させる一方で、元老院保守派がいやがるさまざまな改革案を次々に提出、一年間、執政官として活躍した後、ガリア総督としてガリアに向かいます。
 ガリアにおける8年間、何度も窮地に追い込まれながら、将軍としてシーザーは軍事的天才ぶりを遺憾なく発揮、ガリアをローマ史上はじめて完全に平定します。この快挙にローマでは若者や平民派が大喝采、しかし、元老院保守派は苦虫を噛み潰したような思いでいました。執政官時代から平然と元老院に楯突き、ガリアでは許可なく軍団を増やして元老院の意向に反する作戦を強行、資金も潤沢となって、ポンペイウス以上の力をつけるようになったシーザーを保守派は共和制破壊者として危険視するようになっていました。そのことは、シーザーも承知していました。しかし、とりあえずは、ポンペイウス、クラッススとの同盟があるので保守派も手がだせません。
 紀元前59年、シーザーがガリア総督に任命された年、ポンペイウスはシーザーの娘ユリアと結婚していました。これは、あからさまな政略結婚でした。浮気相手が5人以下なら貞淑な妻とされた当時のローマにあって、このカップルは形だけの夫婦になるだろうと思われていました。ところが、結婚後もポンペイウスとユリアは相思相愛、奇跡的なぐらい仲睦まじい夫婦となりました。しかし、不幸なことに、ユリアはシーザーのガリア遠征中に産褥で死んでしまいます。これによって、シーザーとポンペイウスの絆が絶たれました。一方、3頭政治の一角、クラッススもパルティアで戦死してしまいます。クラッススがいなくなると、シーザーとポンペイウスの2人の実力者が相対立することになりました。
 以前はポンペイウスを冷遇した元老院ですが、保守派に平然と楯突き、独断専行で大兵団を動かしてガリアを制圧、圧倒的実力をつけつつあるシーザーをポンペイウス以上の危険人物とみなすようになっていました。危機感を募らせた保守派はポンペイウスを抱き込みます。ガリアにおけるシーザー軍団の解体を決議、ポンペイウスに独裁者の権限を与えたのです。保守派は、ポンペイウスの軍事的実力を背景としてシーザーを反逆罪、ガリアへの侵略行為によって裁判にかけようとしました。
 ローマ共和制にあっては、本来、ガリア総督といった公職にある人間を裁判にかけることはできないことになっていました。しかし、保守派は非常事態を宣言してシーザーのガリア総督の任期を短縮、次期執政選挙までの間シーザーが公職につけないようにしたうえで訴追しました。こうなると、シーザーにとってガリア軍団だけが頼みです。しかし、共和制ローマ時代、ルビコン川から南のローマ領に軍隊を入れてはならないことになっていました。法律を遵守するのであれば、シーザーは身ひとつでローマに戻らねばなりません。しかし、そんなことをすれば、ルビコン川をわたった時点でシーザーは捕縛され、死刑を宣告されかねません。残された道は、逆賊となることを覚悟の上で、軍隊を引き連れ、ローマ領内になだれ込むことです。当然、内戦は避けられません。
 紀元前49年1月11日、シーザーは部下たちに「ここを越えれば、人間世界の悲惨、越えなければ、わが破滅」と演説し「進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられたのだ!」と叫んでガリア軍団とともにルビコン川をわたります。
 こうして、内戦が始まりました。
 ポンペイウスはアルバニアに後退してシーザーを迎え撃ちました。そして、ファルサロスにおいて両軍が激突、シーザーが最終的な勝利をおさめます。敗退したポンペイウスはエジプトに落ち延びますが、クレオパトラの弟プトレマイオス王に殺されます。
 このようにして、シーザーはローマの実質的な独裁者となりました。エジプトまでポンペイウスを追ってきたシーザーはクレオパトラといい仲になり、部下たちのブーイングにあったりしますが、その後、シリアに転戦、ポントス王ミトリダテスの子ファルナケスの軍をあっという間に打ち破り「来た、見た、勝った」と簡潔そのものの報告を送ったのち、ローマに凱旋します。それまでの血なまぐさい内戦を経験したこともあったのでしょう、内戦終結後、シーザーはキケロ、ブルータスなど敵となった人間も寛大に扱い、ローマ帝国の礎を築く仕事に取りかかります。しかし、紀元前44年3月15日、元老院の議場内において暗殺されます。56歳でした。

シーザーのてんかん

言い伝えられた発作

 さて、シーザーのてんかん発作です。
 残念ながら、本人は発作についてなにも書き残していません。
 したがって、手がかりは、スエトニウス、プルターク、アピアヌスといった古代ローマ歴史家の著作だけということになります。スエトリニウスの著作が紀元後110年、プルターク英雄伝はその10年後、アピアヌスの「ローマ内乱史」は紀元後160年に書かれたものです。つまり、シーザーの死後一世紀半以上たってから書かれたものに頼るしかないことになります。
 まず、スエトニウスです。
 かれは「ローマ皇帝伝」のシーザーの巻で「晩年には、突然失神することがよくあり、いつも夢にうなされていた。また、癲癇に二度ばかり、執務中におそわれたことがある(スエトニウス 「ローマ皇帝伝」)と書いています。ただし、この「二度ばかり」というのが、いつのことなのか、よく分かりません。また、執務中、というと平時の仕事中のことのように思われますが、これに、軍事行動を含めていいものかどうかもよく分かりません。というのも、紀元前46年4月6日、シーザーは小カトーとスキピオらの軍と北アフリカのリビュアにあるタプソス附近の湖で戦い、敵兵死者5万、味方の死者500という圧倒的大勝利をおさめていますが、このときにも発作を起こしたらしく、その様子をスエトニウスはかなり具体的に書いているからです。すなわち、「軍隊を整列させて先頭位置につけていたとき、いつもの病気に襲われた。そこで、発作が始まったなと気がつくとすぐに、すでにゆらぎはじめている意識が病気によってまったく圧倒されて混濁してしまわないうちにと、付近の櫓の中に運ばれて戦闘の間安静にし続けた」というのです。シーザー54歳のときのことです。
 この記述からは、ドストエフスキー同様、シーザーにも前兆とそれに続く焦点意識減損発作があった可能性が推測されます。ただし、脳虚血発作など、意識レベルの低下をもたらす他の病態も否定できません。さらに、こうした発作がタプソス以外の時に二回起きたのか、それとも、タプソスと、それから、あとで述べるように、プルタークが書いているコルドゥバでの初回発作をあわせて2回なのかもよくわかりません。
 シーザーのてんかん発作に関するスエトリニウスの記載は以上ですが、一方で、プルタークは 「頭痛もちで、また癲癇の症状があってコルドゥバでその最初の発作が彼を襲った」(プルターク 「プルターク英雄伝」) と書いています。このコルドゥバでの発作はタプソスの戦いと同年で、この年、シーザーは54歳です。したがって、相当遅いてんかん発症ということになります。さらに、55歳の時にも発作めいたものを起こしたことが同じ「プルターク英雄伝」に記載されています。シーザーに栄誉を授与する決議がなされ、それを告げるため、執政官、法務官、元老院議員がシーザーの元にやってきたときのことです。シーザーは慣例に反し座ったままかれらを出迎えたため、ローマ国家そのものへの侮辱だと元老院議員たちの怒りをひきおこします。これにたいし、これは病気のせいなのだ、とシーザーは弁明します。その弁明というのが「立ち上がって沢山の人に話しかけると気分が」落ち着かず「すぐに神経が揺れ動き、くらくらとしてきて、めまいに襲われ、結局は意識を失うのだ」というものでした。これも、前兆に続く焦点意識減損発作と考えられないことはありません。ただし、この記載だけからは、「たちくらみ」、「脳貧血」の可能性が否定できません。つまり、急に立ち上がると脳血流が低下する体質もしくは疾患がこの時期のシーザーにはあったとも推測できるのです。
 ちなみに、冒頭に掲げたシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の場面はプルターク英雄伝のこの記述をシェイクスピアが脚色したもののようです。ただし、「栄誉を提供する決議がなされ」「無礼にも」の部分が

「キャスカ なに、シーザーに王冠を捧げようとしたんです。ところが、それを見ると、彼は手の甲で、こう、それを払い除けました。

シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」第1幕第2場、中野好夫訳(岩波文庫)」

と変更されています。そして、「すぐに神経が揺れ動き、くらくらとしてきて、めまいに襲われ、結局は意識を失うのだ」という部分は省略され

「キャスカ ところで、シーザーですが、そう言ってそのままぶっ倒れた。しかも息を吹き返したときの言草がですよ、もしなにか自分に失言や過ちがあったのなら、それはみんなこの病気のせい、諸君、ぜひそう考えて欲しいと、こうなんですからね」

とシェイクスピアらしい生き生きとした言葉で脚色化されています。
 もうひとつ、プルタークは「キケロ伝」に次のような記載を残しています。いつのことか不明ですが、やはり、シーザーが独裁者となった晩年、50代のことだろうと推定されます。クイントゥス・リガリウスというシーザーの敵対者の弁護をキケロが引き受けたのですが「いよいよキケロが話し始めると不思議な程シーザーの心を動かした。そしてさまざまの感情の起伏に富み驚く程の魅力に溢れた演説がすすむにつれて、シーザーの顔色はいろいろに変わるので、それは次から次へと移り行くその胸の中をよそ眼にも感じさせた。ついに話し手がファルサロスの戦いに触れてくると、シーザーは興奮のあまり身体をふるわせて手から数枚の書物を落とした」(プルタルコス英雄伝 「キケロ 」)というのです。
 これも、先の記載同様、焦点意識保持発作である可能性がありますが、てんかん発作ではないかもしれません。この時期のシーザーが自律神経に不調をきたしていたことを物語るようにもみえるからです。
 最後にアピアヌスですが、「ローマ内乱史」にシーザーが「てんかんとけいれんという病に、突然、とくに、じっとしているときにおそわれることがあった」と記しています。しかし、具体的症状は記載していません。

鑑別診断

 さて、以上、古代ローマの歴史家三人の記載からシーザーのてんかんについて考えてみることにします。
 結論から申し上げると、確実なことは何も申し上げられません。
 スエトリニウスとプルタークの記述はてんかん発作の可能性を十分示唆していますが、メニエール病、一過性脳虚血発作など他の疾患による発作も否定できません。本人がなにも書き残していないのに、100年以上もたってからの記述を頼りに鑑別診断するのは、やはり、無理があります。ここは、シーザーのてんかん発作の有無は不明、と申し上げておいた方が無難でしょう。
 しかし、シーザーにはてんかん発作があっただろうと考えているてんかんの専門家が少なからずいることも事実です。
 上に挙げた古代ローマの歴史家は3名ともシーザーがてんかんをもっていたと記載しています。しかし、もちろん、これだけでシーザーにてんかんがあったと断言はできません。古代ローマにおけるてんかんの診断が現在のてんかんの概念と合致しているかどうかが問題となるからです。
 古代ローマ黄金期は、中世の「暗黒期」に比べ医学水準が圧倒的に高かったようです。しかし、当時の「てんかん」という言葉の意味が現在の「反復性てんかん発作をきたす病態」としてのてんかんの定義と同一かどうかをまず検証する必要があります。つまり、ラテン語の「てんかん」という言葉の語義の問題です。しかし、これは、ラテン語の知識が皆無に等しい私には手に負えない問題です。
 しかし、ローマ時代の「てんかん」という言葉は現代の「てんかん」という言葉と重なる部分が多いとする説が少なくないようです。テムキンによれば紀元前3世紀のアレキサンドリアの医師エラシストラストはてんかんを「大事な統御機能の障害をともなう全身のけいれん」と定義し、それ以後、この定義が「ほとんど正典的なものに」なっていたそうです(テムキン 「てんかんの歴史1」)。また、古代ローマの医学者、テオドルス・プリスキアヌスは焦点起始両側性強直間代発作とほぼ同一の記載を残しています。「いろいろの先発症状の後で倒れ、身体を伸展したり捻転したりし、そしてしばらくその状態にとどまる。この強直性けいれんの後で間代けいれんの段階に入り、それから眠ったようにみえる状態になる。発作には完全な健忘が伴っている」というのです。焦点起始発作から強直間代発作への進展を見事に表しています。
 シーザーはおそらく当時の最高レベルの医療を受けていたでしょう。もしそうなら、エラシストラストの定義やプリスキアヌスの医学的観察にしたがった診断が、当時、シーザーの発作にはなされていたと想像されます。そして、そのことを前提にすれば、スエトリニウスとプルタークが書き残した発作症状の記載だけからでもシーザーにてんかん発作があったといえそうです。
 1例として、スエトリニウスが書いているタプソスにおける記録についてみてみましょう。「発作が始まったなと気がつくとすぐに、すでにゆらぎはじめている意識が病気によってまったく圧倒されて混濁してしまわないうちにと、付近の櫓の中に運ばれて戦闘の間安静にし続けた」というのですが、これだけで、はたして、シーザーにてんかん発作があったといっていいでしょうか?
 これについては、先ほど述べたシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」がヒントを与えてくれます。作劇上の意図からでしょうが、シェイクスピアはプルターク英雄伝に書かれているてんかん発作を疑わせるシーザーの症状を無視しています。この場面は王位に恋々としているシーザーをブルータスたちの視点から皮肉たっぷりに描こうとしているのですから、たしかに、こと細かに症状を役者に言わせる必要はありません。だいいち、プルタークの記載がてんかん発作を指し示す症状であることをシェイクスピアは知らなかったでしょう。もちろん、知っていたからといって、わざわざ症状を科白にしたかどうかは分かりませんが、知っていたら、真実味を加えるため、症状を書き加えていたでしょう。
 しかし、よくよく考えてみると、現代てんかん学の知識がなかったのは、なにも、シェイクスピアだけではありません。プルタークだってスエトリニウスだって同じでしょう。「発作が始まったなと気がつくとすぐに、すでにゆらぎはじめている意識が病気によってまったく圧倒されて混濁してしまわないうちにと、付近の櫓の中に運ばれて戦闘の間安静にし続けた」とスエトリニウスが書き下したとき、かれは、これが、前兆に続く焦点意識減損発作の症状を示唆しているなんて夢にも思わなかったはずです。何しろ、前兆に続く焦点意識減損発作というてんかん発作の概念はせいぜい150年前ぐらいあたりから徐々に確立されてきたものだからです。古代ローマの年代記者がそうした概念に沿ってシーザーの発作症状をてんかん発作らしく仕立て上げ、記載することは不可能だったはずです。
 おそらく、シーザーという初代ローマ帝国帝王については、さまざまな言い伝えや、記録が残されていて、スエトリニウスはそのうちのひとつを正確に書き写しただけでしょう。ところが、そのようにして残された記載が、われわれが知っている、前兆(焦点非運動起始発作)に引き続いて起きる焦点起始発作の症状におどろくほど合致していたわけです。
 これは偶然の一致でしょうか。
 もしこれに引き続いて強直間代発作を起こしていたのなら(エラシストラストの定義やプリスキアヌスの診断基準にしたがえば、起こしていたことになります)、てんかん発作が(それも焦点起始発作とそれに続く焦点起始両側間代発作が)シーザーにあった確かな証拠といえます。
 ついでながら、スエトリニウスの記述がてんかん発作を指し示すのであれば、それは同時に「てんかん発作を繰り返す慢性の疾患」としてのてんかんにシーザーが罹患していたことも示唆しています。「発作が始まったなと気がつく」には、当然ながら、それまでにも同様な経験をしているはずだからです。この記述からだけでも、シーザーがそれまでに前兆、もしくは、焦点起始意識保持発作とそれに引き続く焦点意識減損発作もしくは焦点起始両側強直間代発作を起こしていただろうと推定できます。さらに、スエトリニウスも、プルタークも何度も発作を起こしたと書いているのですから、シーザーが慢性疾患としてのてんかんを有していた可能性は高いといえるでしょう。
 もしてんかんという診断が正しいのなら、シーザーの死後150年もたって記された症状が正確だったことに驚かざるをえません。シュリーマンがトロイ発掘で証明してみせたように、古代ギリシャの伝承がかなり正確だったことはよく知られています。旧約聖書も同様で、ノアの洪水をはじめとしてその記述の相当部分が歴史事実として確認されています。何十年何百年と年月を経ているはずなのに古代人の伝承というのは、文字として記載されたもののみならず、口伝も想像を絶するぐらい正確だったようです。スエトリニウスやプルタークの記載もそうした古代人伝承の正確さを改めて認識させるものなのかもしれません。
 もうひとつ、この時代の歴史家のてんかんに対する偏見のなさにも驚かされます。たとえば、プルタークは「癲癇の症状があってコルドゥバでその最初の発作が彼を襲った」と書いたあとで、それをシーザーは「遊惰のための口実にしないで、むしろ軍務を病弱の治療法として、やむことのない強行軍と質素な食事、それに絶え間ない野営や艱難辛苦、そういったことにより、病苦と闘ってそれに打ち勝ち、このような病気の虜とならないように肉体を守った」と賞賛しています。少なくともこの文章においては、てんかんは単なる一疾患として扱われ、てんかんに対する妙な偏見は感じられません。ちなみに、シーザーにかんしては、甥の初代ローマ皇帝アウグストスがシーザー家にとって都合の悪い記録の削除を命令したという噂があります。しかし、もしそうだとしたら、シーザーのてんかん発作にかんするエピソードは消し去る対象ではなかったということになるわけで、これも、てんかんという病に対する古代ローマの人々の偏見のなさを指し示しているのかもしれません。

てんかん類型

 さて、つぎに、では、シーザーはどんなてんかんを有していたのかを考えてみましょう。
 まず、家族歴です。
 シーザーとクレオパトラとの間の息子カエサリオン、そして、シーザーの子孫のカリギュラ、ブリタニクスは子ども時代に倒れ病があったといわれているようです(McLachlan RS(2010))。もしこの倒れ病がてんかんだとするとシーザーにはてんかんの家族歴があるということになります。とすると、シーザーも遺伝性、素因性、特発性のてんかんがあった可能性を議論する必要があるのですが、しかし、この点については、ここではあまり追求しないことにします。というのは、クレオパトラとの不義の子やシーザーの子孫に本当にてんかんがあったのかについての検証から始めなくてはいけないわけですが、これが、上に述べたように相当面倒だからです。さらに、シーザーのてんかん発症は50代と推定されています。成人期発症のてんかんは小児期発症のてんかんに比べ遺伝性、素因性のてんかんはまれだということになっていますから、この点からも、シーザーが遺伝性(特発性)てんかんに罹患していた可能性は低いといっておいていいのではないかと思われるのです。
 てんかんの発症は乳幼児期にピークがあり、年齢が進むにつれて発症率は低下します。しかし、50歳台あたりから、再び、新たなてんかん発症が目立ってきます(図1)。つまり、てんかんは人生の入り口と出口に発症しやすい疾患なのです。ただし、「人生の入り口」に多くみられる遺伝性、素因性のてんかんは、上に述べたように、「人生の出口」にはほとんどないと考えられています。高齢発症てんかんにおいては脳の何らかの器質性変化が原因の多くを占めているとされているのです。
 一般に、高齢発症というのは65歳以上の発症を指しますが、シーザーのように50歳代の発症であっても、その病因やてんかん発作の種類は小児期のものとはかなり異なりますし、、シーザーのように50歳代の発症であっても、その病因、てんかん発作の種類は小児期のものとはかなり異なりますし、平均年齢の低かった当時としては50代というのは十分に高齢ですので、ここではシーザーのてんかんは「高齢発症」として話をすすめます。
 高齢者にてんかんをもたらす脳の疾患としては脳梗塞や脳出血などの脳血管障害、頭部外傷、脳腫瘍、それに、アルツハイマー病などの変性疾患などがあります。さらに、今日の日本ではほとんど考えられませんが、古代ローマの時代ということになると結核、寄生虫などによる頭蓋内感染症も原因疾患として考えておく必要があります。
 シーザーがこうした疾患のいずれに罹患していたのか、今日では確かめようもありません。

図1 986万4,278人のレセプト8年分データから解析した日本の年齢別てんかん発症率。

 成人検診で有名な福岡県久山町の調査では、65歳以上で発症したてんかんの原因の約60%が脳血管障害で、次いで、頭部外傷(12%)が続いていました。ただし、原因がよく分からない例も30%認められています。このうち、脳血管障害では、発症1年以内にてんかん発作がみられる危険率は脳血管障害のない人の20倍以上と推定されています。
 一方、世界的にみても、脳梗塞、脳出血などの脳血管障害が高齢者てんかんの原因半数近くを占め、原因不明も14%に上るという報告がなされています(Sen A et al (2020) Lancet)。
 シーザーには片麻痺といった永続的な神経学的脱落症状は死ぬまでなかったようですから、脳梗塞や脳出血がてんかんの原因だった可能性はほとんどないものと思われます。また、戦場などでしたたか頭を打ったという記録もないので、頭部外傷の後遺症としててんかんを発症したとも考えられません。
 「頭痛もちで、また癲癇の症状があってコルドゥバでその最初の発作が彼を襲った」というプルタークの記載があるので脳腫瘍は考えておく必要があるかもしれません。脳腫瘍で頭蓋内の圧力が高まると頭痛をきたし、その一方で、脳腫瘍で脳が圧迫されて神経網が乱れ、てんかん発作が起きやすくなるからです。しかし、脳腫瘍があったのなら、髄膜腫のような良性腫瘍であっても、2年も経てば脳圧が高まり、運動障害、知的機能障害など、てんかん以外の重篤な症状が出てくるはずです。しかし、そうした記載は残されていません。脳腫瘍の可能性も低いように思われます。
 となると、てんかん発作以外の神経症状があらわれない高齢者の病気を考える必要があります。
 候補の一つに挙げられるのが脳の動静脈奇形です。脳動静脈奇形は脳の中で動脈と静脈が毛細血管を介さず直接つながり、このため、血管の結合部位で血管がとぐろを巻いた塊(ナイダス)となってしまう先天性の血管奇形です。ナイダスは正常な血管に比べて壁が薄くて破れやすく、何かの拍子で破れると脳出血、くも膜下出血をひきおこします。そして、それに伴ってけいれんを起こすことがあります。しかし、その場合、脳出血、くも膜下出血による神経学的欠落症状も出るはずですから、シーザーには当てはまりません。しかし、脳動静脈奇形のナイダスは必ず破裂するわけではありません。けいれんを起こしたのでCTやMRIなどの脳画像を撮ってみたら、脳動静脈奇形が見つかった、ということがまれにあります。脳動静脈奇形のけいれんの原因はナイダスの微小出血のせいだとか、ナイダス周囲の血行障害のせいだとかいろいろ推測されていますが、よく分かっていません。しかし、いずれにしても、脳動静脈奇形では、脳内の大出血による合併症がなくても、てんかん発作が起こりえます。この脳動静脈奇形が破裂する危険性は1年で2-4%と推定されていて、たまたまみつかった場合、手術を含めた何らかの処置をするかどうか頭を悩ませることになります。もしかしたら、一生破裂しないかもしれないからです。
 いずれにしても、シーザーのてんかんが脳動静脈奇形によるものだった可能性は十分ありうます。他の神経学的欠落症状もなくてんかん発作が起きる可能性があることから、脳動静脈奇形はこのようにシーザーのてんかんの原因として一応の候補に挙がってくるからです。
 あと、考えるべきは脳の慢性感染症です。
 まず、梅毒です。梅毒については、テオ・ゴッホに関連してのちにゴッホのところで詳しく述べる予定ですが、梅毒の晩期症状として、脳内に潜んでいた梅毒をもたらす菌、スピロヘータが10年近くたってから脳の血管に悪さをするようになって、さまざまな神経症状をもたらすことがあります。神経梅毒といいます。この神経梅毒の症状のひとつとしててんかん発作があります。梅毒は、いうまでもなく、性病です。そこで、シーザーですが、女性に関してはかなりお盛んだった人物です。梅毒に罹患する危険性も人一倍あったわけで、梅毒からてんかん発作を起こした可能性は十分考えられます。ただ、シーザー梅毒説には難点もあります。神経梅毒でいつまでもてんかん発作だけがみられるということはないからです。早晩、性格変化、譫妄、痴呆、脊髄症状などてんかん発作以外の神経症状が出現します。てんかん発作を起こしてから2年以上たってもそのような症状が一切シーザーには認められていないのですから、やはり、神経梅毒は考えにくいと思います。
 梅毒以外にもう一つ候補になりそうな脳の慢性感染症があります。
 嚢虫症です。
 サナダムシという寄生虫がいます。有鉤条虫、無鉤条虫、広節裂頭条虫といった寄生虫の総称で、人の消化管に寄生、成虫になると全長が10メートル以上に達し、その扁平に長く連なった形が真田紐に似ていることからサナダムシと呼ばれています(英語ではテープ虫tape worm)。この長い紐は節と呼ばれる成体が連なったもので、これを多節条虫といいます。しかし、中には節と節が繋がらない単節条虫というのもあります。単節条虫は紐やテープになりませんから、サナダムシではありません。
 サナダムシ(条虫)は卵の形で人間に感染します。卵をもった豚肉(有鉤条虫)や牛肉(無鉤条虫)をきちんと熱を通さずに食べると腸でこの卵が孵化し、次から次へと繋がってサナダムシになります。卵で汚染された野菜を食べて感染することもあります。
 しかし、このサナダムシ、姿形は不気味ですが、意外と害はありません。せいぜい、軽い腹痛, 腹部膨満や下痢をもたらす程度です。
 問題なのは有鉤条虫の幼虫です。サナダムシとなった有鉤条虫が切れて一個一個の節(片節)に戻り卵をうむことがあります。この卵が孵化するとサナダムシを形成する節にはならず、六鉤幼虫という変種になります。その虫卵を有する節(受胎片節)や卵(幼虫包蔵卵)を何かのきっかけで口にすると、卵から六鉤幼虫が腸で孵化します。この六鉤幼虫は腸壁から血管内に入り込み、血流に乗って、筋肉や眼球や脳に流れ着いて、そこで発育します。発育するとレモンのような形をした1cmぐらいの袋に包まれるようになり、その姿形から嚢虫と呼ばれます。各組織に寄生した嚢虫は生きている間は様々な方法で宿主の攻撃を避けるため炎症反応が起きません。このため、たいてい、なんの症状ももたらされません。ところが、嚢虫が死ぬと、死骸が組織反応を誘発してさまざまな症状を引き起こすようになります。筋肉で死ぬと硬い塊となり、皮膚の奥に塊として触れます。また、眼球で嚢虫が死ぬと目がかすむといった症状がでます。しかし、何より問題なのが脳内で死んだ嚢虫です。死骸の塊が脳内で害を及ぼすようになるのです。これを脳有鉤嚢虫症(神経嚢虫症)と呼んでいます。症状は嚢虫の位置、数によってさまざまですが、たとえば運動皮質の有鉤嚢虫の死骸の塊は片麻痺をもたらします。死んだ場所によっては神経脱落症状がでないこともあるのですが、てんかん発作だけはほぼ必発です。有鉤嚢虫の亡骸が神経伝達の乱れを引き起こし、異常電流を誘発するらしいのです。てんかん発作が脳有鉤嚢虫症唯一の神経症状ということもめずらしくありません。


有鉤条虫の生活環

ヒトは,汚染された豚肉の摂取後に成虫による腸管感染症を発症することもあれば,虫卵(ヒトを中間宿主にする)の摂取後に嚢虫症を発症することもある。

嚢虫(幼虫)を含む生または加熱調理不十分な豚肉をヒトが摂取する。

 1.嚢虫(幼虫)を含む生または加熱調理不十分な豚肉をヒトが摂取する。
 2.摂取された後,嚢胞が翻転し,頭節を介して小腸に付着し,約2カ月で成虫に成熟する。
 3.成虫が片節を産生し,それが受胎片節になる;受胎片節は条虫から分離し,肛門に移行する。
 4.分離した片節,虫卵,またはその両方が終宿主(ヒト)の便中に排出される。
 5.幼虫包蔵卵または受胎片節(例,便で汚染された食品)を摂取してブタまたはヒトが感染する。ヒトでの自家感染は,片節が逆蠕動により腸管から胃に排出された場合に生じることがある。
 6.摂取された後,虫卵は腸管内で孵化し,六鉤幼虫を放出し,それらが腸壁から体内に侵入する。
 7.六鉤幼虫が血流を介して横紋筋のほか,脳,肝臓,および他の臓器に移行し,そこで嚢虫に発育する。その結果,嚢虫症を発症することがある。。

MSD マニュアル
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/professional/13-%E6%84%9F%E6%9F%93%E6%80%A7%E7%96%BE%E6%82%A3/%E6%9D%A1%E8%99%AB-%E6%9D%A1%E8%99%AB%E9%A1%9E/%E6%9C%89%E9%89%A4%E6%9D%A1%E8%99%AB-%E3%83%96%E3%82%BF%E6%9D%A1%E8%99%AB-%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E5%9A%A2%E8%99%AB%E7%97%87

 嚢虫症は、現在、日本では滅多にみられませんが、ラテンアメリカ、サハラ以南のアフリカ、アジアの不衛生な地域ではめずらしくなく、てんかんの主要原因になっています。しかし、てんかん発作以外には神経症状が出ないことが多いので、CTなどの画像検査をとらないかぎり、嚢虫症によるてんかんだと判明することはなく「顧みられることのない疾患」と呼ばれています。
 この嚢虫症がシーザーの原因になり得ることはご理解いただけるかと思います。
 ただし、シーザーが嚢虫症にかかる機会があったかどうかが問題となります。しかし、シーザーが生きていた時代には嚢虫症はすでにシーザーの周りでその存在が知られていました。古代ギリシャのアリストテレスは動物誌の中で豚と嚢虫との関係を記載していますし、クレオパトラといい仲になってシーザーがグズグズと半年以上滞在した古代エジプトではパピルスにもサナダムシのことが書かれています。さらに、エジプトでは紀元前一世紀のミイラから嚢虫がみつかっています。シーザーが嚢虫症に罹患する機会はいくらでもあったでしょう。
 このように、可能性としてはシーザーのてんかんの原因疾患はいくらでも考えることができます。しかし、たとえば、脳動静脈奇形にしても嚢虫症にしても確証となるものは何もありません。それに、久山町の調査でもお分かりのように、高齢発症てんかんの原因がすべてわかるわけではありません。MRIなどの画像や血液検査で原因検索がかなりできるようになった現在ですら高齢発症てんかんの30%は原因不明なのです。そんな中で、2000年前の高齢発症てんかんの原因を探ろうとするのは、てんかん発作があったのかどうかを詮索する以上に無謀な試みです。わからないとしかいいようがありません。

高齢発症てんかん

 ところで、シーザーが罹患していたかも知れない高齢発症てんかんですが、現在、日本も含めた先進国で大きな問題となっています。
 かつては、てんかんといえば、子どもの病気ということになっていました。しかし、人口構成に占める高齢者の割合が増えるにつれ、高齢発症てんかんが急増、イギリスでは全てんかん発症者の4分の1を高齢者てんかんが占めるといわれるまでになっています。一方、福岡県久山町での調査では、65歳以上のてんかんの有病率が10万人あたり10.3人と40-64歳の3.6人に比べ圧倒的に高いことがわかっています。今後も、高齢化の進展につれ発症数のさらなる増大が予想されます。
 高齢発症てんかんは、誤診されやすいという点で問題です。
 高齢者には「発作」を起こす疾患がたくさんあります。動脈硬化に起因する脳血流の低下で生ずる一過性脳機能脱落症状などはその代表的なものです。一方、高齢発症てんかんでは、わずかな意識障害、失語、麻痺、行動異常など、てんかん発作とは思われないような発作症状が少なくありません。けいれんを伴わない軽い意識障害は、心不全、偏頭痛、薬物中毒などでも起こりますから、これらと間違われて、しばしば、てんかん発作が見過ごされる恐れがあります。実際、典型的なてんかん発作といえる全般強直間代(けいれん)発作は高齢発症てんかんの40%ぐらいにしかみられません。多くが、はっきりとしたけいれんを伴わないてんかん発作なのです。
 てんかん発作に起因する意識障害をともなう異常行動、すなわち、焦点意識減損発作が認知症症状と間違われてしまうこともあります。けいれんを伴わないてんかん発作重積状態(複雑部分発作重積発作)では、脳波をとらない限り、認知症による異常行動と区別がつかないことさえあります(現在の医学でも、けいれんを伴わない焦点意識減損発作が高齢者で起きた場合、認知症と誤診される危険性があります。シーザーの時代であれば、なおさら、はっきりとした痙攣発作が見られない限り、てんかんと診断されることは難しかったでしょう。ですから、てんかんと診断されていたということは、晩年のシーザーには痙攣発作のようなかなりはっきりした「てんかん発作症状」があったと思われます。その意味からも、シーザーにてんかん発作があった可能性は高いといえるかもしれません)。
 さらに、てんかん発作前後の健忘症状が認知症と間違われる恐れもあります。一過性てんかん性全健忘と呼ばれるもので、中年から高齢にかけてのてんかん発作では一時的に(たいていは1-2時間ですが時として24時間近くまで続くこともあります)発作前に起こった出来事を忘れてしまい、新たに起こったことの記憶も失われてしまうことが少なくありません。新しいことを覚えられないため、しばしば、同じ質問をしつこく繰り返します。時や場所にかんしても混乱をきたし、このため、患者さんは不安を覚え、用心深くなります。ところが、そんな状態なのに、記憶に依存しないことについては筋道の通った行動ができます。そして、回復後は、健忘症状がみられた時のことはきれいさっぱり忘れてしまっています。上に述べたように、てんかん発作がはっきりしたけいれんを伴わない高齢者てんかんでこんな症状がみられると、てんかん発作に気づかれないまま、認知症と勘違いされてしまう恐れが十分にあります。
 こうしたことから、現在、きちんと診断されていない高齢発症てんかんが相当数存在しているのではないかと疑われています。
 てんかんと診断されることが高齢者の方に相当なショックを与えることも問題です。子ども時代に一度でもてんかん発作を目撃すると、てんかんに対する恐怖心を感じていつまでも残ることが多いと言われていますが、そのてんかん発作を年老いてから起こし、しかも、いつ発作が再発するともわからない(高齢発症てんかんは薬を飲まないと再発率が高いことがわかっています)と宣告されるのですから、それも、当然です。高齢の方の子どもの頃というと、まだ、てんかんへの偏見が根強く残っていた時代です。そのてんかんに罹患したということも不安をかき立てます。不安が鬱状態を誘発し、不眠症になってしまう方もみえます。てんかんと診断されたとたん、心が萎えて、自立した生活が不可能になる方もみえます。こうしたさまざまな問題を抱えたまま症例数が急激に増加するのですから、高齢発症てんかんは、今後、大きな問題に発展する恐れがあります。
 しかし、高齢者発症てんかんの多くは薬でコントロール可能です。それも、わずかな量の薬で発作が簡単に止まることが少なからずみられます。今までのおかしなことは何だったんだろうと思えるぐらいサッと症状が消え、生活の不安がなくなり、将来への展望が大きく開けることがありうるのです。だからこそ、てんかんを見逃さないようにすることが大事なのです。
 ただし、高齢者では抗てんかん薬の副作用が出やすいことに注意が必要です。服薬後、眠気、ふらつき、認知機能の低下などの有害事象が若年者に比べみられやすいことが知られているのです。下手をすると、転倒して骨折に至る恐れさえあります。副作用が出やすいのは、加齢に伴う肝臓やじん臓の機能低下、体脂肪の減少、合併疾患で内服している薬の影響など様々な要因が重なるためです。そこで、なるべく副作用を避けるために、抗てんかん薬の選択に工夫がなされています。もちろん、患者さんひとりひとりの状況に合わせた対応が一番大事なのですが、それを前提条件として、抗てんかん薬としては、比較的最近になって開発されたラモトリギン、レベチラセタム、ガバペンチン(単独使用が日本では承認されていません)などが高齢者には推奨されています (Pohlmann-Eden et al. (2016), Tanaka T et al. (2021))。カルバマゼピンも抗てんかん作用の点ではこれらの薬と負けていませんが、さまざまな薬の代謝に影響を与えるので、種々の薬を複数服用していることの多い高齢者では使いづらいという面があります。事実、治療を開始すると、高齢発症の患者さんはカルバマゼピンよりも新しい抗てんかん薬の方を好んで長く服用する傾向がある(忍容性tolerabilityが高い)ようです。
 ちなみに、高齢者でてんかん発作がはじめてみられたときどうするか、いわゆる初回発作への対応が治療上の一つのポイントになります。小児のてんかんの中には2回目の発作がみられないてんかん症候群が結構あるので、薬を飲まずに様子をみることがありますが、高齢者てんかんではすぐに薬の服用を開始した方がいいと考えられています。高齢者てんかんでは発作再発率が高いからです。再発率は、68%という報告から、なかには、99%というものまであります。ですから、原則として高齢者発症のてんかん発作に対しては、たとえ、初回発作であっても抗てんかん薬の服用を開始することが勧められています。さらには、アルツハイマー病などではてんかん発作が認知機能の低下を促進するという報告があります。しかも、症状として現れないてんかん発作がアルツハイマー病には隠れているといわれているともいわれています。その意味から、高齢者発症てんかんではなるべく早く抗てんかん薬の服用を開始する方がいいだろうと考えられているのです。一方、高齢者てんかんの原因の多くを占める脳卒中(脳出血、脳梗塞)後てんかんでは、発症一週間未満の初期発症てんかん発作に比べ、一週間後以降の後期発症てんかん発作のほうがその後の発作再発率が高いことが知られています (Tanaka T, Ihara M (2017))。

てんかんの影響?

 話を戻して、高齢(中年?)発症てんかんのシーザーです。
 てんかん及びてんかんの基礎疾患が晩年のシーザーに何らかの影響を及ぼしたのかどうかはわかりません。しかし、てんかん発症後もかれは軍事、政治両面において発症前と変わらぬ抜群の能力を発揮しています。ですから、少なくともシーザーは上に述べたような老齢者てんかん特有の認知症状とは無縁だったようです。また、前にも述べましたように、てんかん発症の原因として、微少脳梗塞、脳腫瘍といったてんかん発作以外の精神神経症状をもたらす疾患はなかっただろうと推定することもできます。
 シーザーは事実上の独裁者となってから、税制の改革、通貨改革、元老院定数の増大、ガリア人をはじめとする属州の人間への市民権の拡大などさまざまな政治改革を行い、ローマ帝国の土台を築きました。また、当時の最新天文学の成果を採用、いわゆる、ジュリアス暦を制定しています。そして、無名に等しい存在だった妹の子、オクタヴィウスを遺言でひそかに後継者に指名しています。シーザーの死後50年以上にわたって独裁者としてローマを統治し、ローマ帝国を確固たるものとしたアウグストゥス大帝です。晩年にあっても、シーザーの人を見る目が衰えていなかった証といえるでしょう。これらを考えると、少なくとも、てんかんを発症した晩年にあってもシーザーが明晰さを失わずにいたことだけはたしかなようです。てんかんの基礎疾患、もしくは、てんかん発作がシーザーの判断力を曇らすことはなかったと考えていいでしょう。
 しかし、本当にてんかんによる精神面への深刻な影響がなかったのかどうか。
 これは、わかりません。
 シーザー本人が何も書き残していないので判断のしようもありません。てんかんが晩年の短期間に現れただけですのでさほど深刻な影響はなかったのかもしれませんし、プルタークがいうように生来の気質によって「病苦と闘ってそれに打ち勝ち、このような病気の虜とならないように肉体を守った」のかもしれません。しかし、「完全無欠の俗物」にもてんかん発作がなんらかの影響を及ぼし、晩年、「独裁者」として憎まれ、暗殺される素地をつくってしまった可能性も否定はできません。実際、内戦を終熄させ、事実上の独裁者となってからのシーザーは、クレオパトラと浮き名を流すまでの「完全無欠の俗物」としての明るさを失ってしまったという意見もあるようです。独裁者となって、専制をほしいままにし、傲岸不遜になったというのです。こうした意見は共和制を懐かしむあまりの古代ローマの歴史家の偏見の反映だという解釈も一方ではあるようですが、いずれにしても、てんかん発症以降の晩年におけるシーザーの精神状況については今ひとつわかりません。

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」

 ところで、最初に掲げたシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」ですが、読まれて、変に思われた方はいらっしゃらなかったでしょうか。
 問題の箇所を抜き書きしてみます。

ブルータス ありそうなこと、あの男は癲癇の持病持ちだからな。
キャシアス いや、それはシーザーの持病じゃない。君、そして僕、そしてまたキャスカ、僕たちみんなの病気だよ。
キャスカ あなたの仰ることはよくわかりませんが、シーザーのぶっ倒れたことだけは確かな事実です……

 すこし説明しておきますと、この場面は、おのれの独裁のためにシーザーがローマ共和制を破壊しようとしているのではないかと疑念を抱いたキャシアス(ブルータスの義弟カッシウス)とキャスカが、シーザーの子供ではないかという噂もあったブルータスをシーザー暗殺計画に引き込もうとしているところです。シーザーにてんかんの持病があるとブルータスが言っているのにキャシアスは「いや、それはシーザーの持病じゃない。君、そして僕、そしてまたキャスカ、僕たちみんなの病気だよ」と謎めいた返答をしています。この部分、坪内逍遙訳でも

カシヤ   ま、ちょいと。え?シーザーが卒倒しましたか?
カスカ   公会場の真中で卒倒しました。口から泡を吹いて、まったく無言で。
ブルータス ありさふなこと。癲癇は彼奴の持病に有る。
カシヤ   いや、シーザーには無い、が、貴下や予やカスカ君には顛倒病といふ持病がある。
カスカ   そりゃどういふ意味だか知らんが、シーザーの卒倒したのは事実ですよ。

となっています。
 念のために、英語の原文もみてみましょう。

Cassins: But, soft, I pray you: what, did Caesar swound ?
Casca: He fell down in the market-place, and foamed at mouth, and was speechless.
Brutus: this very like : he hath the falling sickness.
Cassins: No, Caesar hath it not : but you and I And honest Casca, we have the falling sickness.
Casca: I know not what you mean by that; but, I am sure, Caesar fell down

 シェイクスピア時代の英語のことはよくわかりませんが 「you and I And honest Casca, we have the falling sickness」 はたしかに「貴下や予やカスカ君には顛倒病という持病がある」と訳すのが自然なようです。シェイクスピアの戯曲にはこういった謎めいた科白がときどきでてきますが、これもそのひとつなのかもしれません。たとえば、シーザー暗殺を計画しているキャスカの心理的混乱が現れているとか……もし、そうであれば、カスカが「そりゃどういふ意味だか知らんが、シーザーの卒倒したのは事実ですよ」と受け流しているのも納得がいきます。
 ただ、このキャスカの科白、てんかん診療に携わるものにとって、そのような解釈だけではちょっと惜しい意味深長なものが含まれているように思えるのです。
 てんかん発作は脳の神経細胞網の爆発的異常電流によって起こるものです。脳をもっている限り、どんな人間でもてんかん発作を起こす可能性があります。キャスカの「僕たちみんなの病気だよ」という科白は、そのことを図らずも述べているようにみえます。もちろん、シェイクスピアがそうした意味をこの科白に込めた可能性はまずないでしょうが、好都合なので、冒頭に使ってみたのです。
 ところが、念のため、もうひとつ、小田島訳にあたってみましたら


ブルータス 
ありそうなことだ、あの男にはてんかんの持病があるからな。
キャシアス いや、てんかんでぶっ倒れるのはシーザーではない。君やキャスカが安閑としているとぶっ倒されるのだ。
キャスカ   君がなにを言いたいのか知らんが、とにかくシーザーがぶっ倒れたことはたしかだ。
     ウィリアム・シェイクスピア 「ジュリアス・シーザー」 小田島雄志訳(白水Uブックス)

となっていました。さらに、安西徹雄訳でも

ブルータス   ありうることだ。 彼、その手の持病があるからな。
キャシアス   いや、そんな持病のあるのはシーザーではない。 君だ、 おれだ、 そして君もだ、キャスカ。 われわれこそ、恥さらしにも、地面に倒れ伏しているのだ。
キャスカ   どういう意味だね、そりゃ。よう分らんが、確かなことはだ、シーザーが事実ぶっ倒れたということ だ。
       シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」安西徹雄訳 (光文社古典新訳文庫)

 つまり、うかうかしていると、シーザーが独裁者になって自分たちは打ち倒されてしまう(しまっている)ぞという意味が 「you and I And honest Casca, we have the falling sickness」 には込められているというわけです。これは、劇の前後の流れからいえばきわめて自然な解釈です。少しも謎めいておらず、ましてや、「全人類てんかん共有説」とは何の関係もありません。小田島訳や安西訳のこの部分が専門家の間でどのように評価されているのか知りませんが、こういう解釈が一番わかりやすいですし、ちょっと残念ですが、どうやら、正しいようです。
 ただ、中野、坪内訳もてんかんを論ずるにあたっては好都合で、捨てがたいものがあります。そこで、中野訳をそのまま冒頭に使わせて頂いたというわけです。ご了承ください。

参考資料・引用文献

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ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳  ジュリアス・シーザー  白水Uブックス

宇佐美清英、池田 昭夫 (2015) 高齢者てんかん診療の現況 日老医誌52:102―11

カエサル著 國原吉之助訳  ガリア戦記 講談社学術文庫

カエサル著 國原吉之助訳  内乱記  講談社学術文庫

河野与一訳 プルターク英雄伝(1)~(12)  岩波文庫

シェークスピア 坪内逍遙訳 ザ・シェークスピア 全戯曲+全訳 全一冊  第三書館

シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」 安西徹雄訳 (光文社古典新訳文庫)

シェイクスピア著 中野好夫訳 ジュリアス・シーザー 岩波文庫

塩野七生著 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前」 新潮社

塩野七生著  ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後  新潮社

塩野七生著  ローマから日本が見える  集英社

スエトニウス著 國原吉之助訳  ローマ皇帝伝(上) 岩波文庫

高田康成著  キケロ  岩波新書

テムキン著 和田豊治訳 てんかんの歴史1中央出版部

日本てんかん学会ガイドライン作成委員会報告 高齢者のてんかんに対する診断・治療ガイドライン

長谷川博隆著  カエサル  講談社学術文庫

モンタネッリ著 藤沢道郎訳 ローマの歴史 中公文庫

プルターク著 鶴見祐輔訳  プルターク英雄伝  潮文学ライブラリー

村上堅太郎編  プルタルコス英雄伝(上)(中)(下) ちくま学術文庫

村上堅太郎編 世界の歴史2 ギリシャとローマ 中公文庫

ユリウス・カエサル 中倉玄喜 翻訳 新訳 ガリア戦記 PHP出版

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